7828 稲毛三郎重成のこと 平井修一

陽気に誘われて散歩の足をちょっと延ばし、多摩丘陵(川崎市)の枡形山まで行ってきた。頂上には枡形城址公園があり、GWのためにいつもの週末より人出が多く、ハイカーや子供連れの若い家族で大層なにぎわいだ。
「枡形城」と言っても地元の人しか知らないだろうが、鎌倉時代の武将、稲毛三郎(小山田)重成の城だ。稲毛氏はもともとが平氏だが、源平合戦では源氏側についた。事情はこうだ。
治承4(1180)年、源頼朝は伊豆に挙兵したが敗れて上総(千葉)に逃れた。その後、反撃のために再度挙兵して武蔵国(東京)へ渡るときに隅田川の白髭神社あたりに屯集し、地方武装勢力の坂東武者に「打倒平氏のために与力せよ」とアピールしたのだ。古文書に曰く――
<兵衛佐頼朝、その後も生存あって、武総の隅田河原に陣し、千葉、上総、甲信、武相の諸源氏を語らい、兵員三万余騎と聞こえ、その勢い逐日熾烈>(吾妻鏡)
この時に平氏でありながら小山田有重・重成親子は一族郎党と共に頼朝に帰伏した。機を見て敏だった。「このまま平氏の天下が続いたところで我らは公家の荘園で汗水を流すだけで、荘園の一つでも持てる見込みはない。ここは乾坤一擲、頼朝殿に助太刀し、我ら武士も領地を手に入れよう」と一族の浮沈を頼朝に賭けたのである。
その後、重成は頼朝の片腕として寿永3(1184)年の木曾義仲追討、一ノ谷の戦い、文治5(1189)年の奥州合戦に参戦し、建久元(1190)年の頼朝上洛にも供奉している。
頼朝の信頼がいかに厚かったかは、頼朝の正室政子の妹を妻に迎えたことでも知れる。頼朝の義弟になったのだ。重成は多摩丘陵一帯の広大な「稲毛荘」を安堵され、戦闘用の山城として枡形城を築いた。
好事魔多し。建久9(1198)年 に頼朝が急死(脳卒中による落馬?)すると、一族の結束も緩み始めたのだろう、元久2(1205)年、権力奪取を狙う舅の北条時政の陰謀に加担したとして重成は政敵から殺されてしまった。
重成の全盛時代は25年。乱世の武将としては永いほうかもしれない。今日でも地元を代表する英雄として「稲毛三郎重成」の呼び名で敬愛されており、枡形山中腹の居住用「稲毛館」跡地の廣福寺の墓域にある五輪塔を中心にした墓は香と花が絶えることがない(*)。
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*)平安時代末期に相模国(神奈川県)一帯で勢力を持っていた「横山党」の首領、横山隆兼が稲毛氏の先祖のようだ。隆兼は娘を有力部族の秩父平氏に嫁がせ、後に鎌倉幕府の有力御家人(臣下)となる小山田有重(稲毛三郎重成の父)は彼の孫になる。
このため小山田家の宗家は横山家になる。現在、廣福寺の「菅生横山党」を祀る墓は横山家が管理しているが、戦国時代には武田信玄とも干戈を交えた武勇の一族である。周囲には横山家の墓が実に多い。
廣福寺は真言宗豊山派。平安時代の承和年間(834~848年)に慈覚大師(円仁)が創建。鎌倉時代に稲毛三郎重成により中興。本堂に重成坐像のほかに県重文指定の聖観世音菩薩像、地蔵菩薩像が安置されている。
余談ながら川崎市の広報資料によると昭和42(1967)年頃に、「廣福寺の寺域には稲毛三郎重成の軍資金、砂金7トンが埋蔵されている」という噂が広まり、好き者が文化庁の許可を得て10日間ほど掘削した。成果は砂金ならぬ借金だったという。
杜父魚文庫

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