ハンセン病(ハンセンびょう、Hansen’s disease)は、抗酸菌の一種であるらい菌 (Mycobacterium leprae) の皮膚のマクロファージ内寄生および末梢神経細胞内寄生によって引き起こされる感染症である。
病名は、1873年にらい菌を発見したノルウェーのアルマウェル・ハンセン (Armauer Hansen) の姓に由来する。以前は「癩(らい)病」「ハンセン氏病」とも呼ばれていた。
感染はらい菌の経鼻・経気道的による感染経路が主流であるが、伝染力は非常に低い。また感染して発症しても現在の医学では適切な治療を行えば治癒が可能であり、重篤な後遺症を残すことも、自らが感染源になることもない。
現在、世界のハンセン病新規患者数は年間約25万人であるが、日本人新規患者数は年間0 ―1人と、稀になった。ハンセン病は見た目により歴史的に差別・偏見の対象となった病気であり、かつての日本のハンセン病政策においても大きな問題を残したことで有名な疾患である。
それにも拘わらず、厚生省は患者を強制的に療養所に収容する「らい予防法」の廃止に積極的ではなかった。
矛盾したような話だが、これを積極的に廃止に追い込んだのは厚生省で医系技官の最高峰たる医務局長をつとめた大谷藤郎(おおたに ふじを)さんだった。
1993年にWHOから社会医学・公衆衛生分野におけるノーベル賞といわれるレオン・ベルナール賞を授与されたが、2010年12月7日、埼玉県内の病院で死去した。86歳没。
故園田直(そのだ すなお)は1980(昭和55)年9月19日、鈴木善幸首相から厚生大臣に任命された。前任者が不祥事で急遽、辞任したためのピンチヒッター。既に佐藤栄作内閣で初入閣で勤めたポストが厚生大臣だったことから起用されたもの。
官房長官、外務大臣2期のあとではあり、糖尿病の合併症として腎臓の機能がかなり低下(浮腫み)が目立ち、歳末には東京・千駄木日本医科大学病院に極秘入院しながらの執務をこなした。
目立った決断といえば、最初にやった事は癌治療薬としての「丸山ワクチン」認可への環境整備、岡山県内のハンセン病療養施設へお架橋決断。
この当時の医務局長が大谷さんで、かねて「ライ予防法」の廃止主唱者であったが、そのための環境整備は十分ではなかった。
「大臣、強制収用施設を一度、視察していただけませんか」。大臣室で大谷局長はこう切り出した。おかしな話ではある。いうなれば先輩の厚生官僚たちが職を賭して施行してきた法律の廃止を現役官僚のしかも医務局長が企てる。
1981(昭和56)1月18日(日曜日)羽田を発って朝9時半、熊本県の菊池恵楓園を訪問、患者たちとお茶をご馳走になりながら懇談した。同行者は下村健官房長、横田・渡部両秘書官。
「大谷局長の説明では感染力が弱いから、なかなか感染しない。強い治療薬だってできている。仮にワシに感染したって、発症前にわしゃ別の病で死んでるバイ」と平気だった。
園田氏はその5ヵ月後、今度はピンチヒッターの外務大臣に転じたため、厚生省との縁は切れるが、その寸前に決断したのが、いわゆる満洲に取り残されて親をさがしている「中国残留孤児」の祖国への呼び寄せ事業開始だった。
大谷さんは2年後の1983年に退官。今度は民間の立場で「ライ予防法」廃止への活動を盛んに展開。1996(平成8)年4月1日の廃止実現まで、実に13年を要した。
大谷 藤郎(おおたに ふじを、1924年3月27日―2010年12月7日は、日本の元厚生官僚(テクノクラート)、大学教授。精神障害者やハンセン病患者の人権保護・待遇改善に積極的に取り組み、1993年にはWHOからレオン・ベルナール賞を授与された。
略歴 1924年3月27日、滋賀県に生まれる。1952年、京都大学医学部卒業(在学中は小笠原登に師事。小笠原は愛知県出身。京都帝国大学医学部卒業後、同大学医学部の皮膚科特別研究室助教授となり、1948年まで在職した。
彼はハンセン病の発病は体質を重視すべきことや不治ではないことを主張し、当時行われていた患者の強制隔離・断種に反対したが学会から葬り去られる結果となった)。
1959年、旧厚生省に医系技官として入省した。
入省後は、1962年から精神衛生課に勤務し、全国精神障害者家族会連合会(略称・全家連、2007年破産・解散)の創設支援、1965年の精神衛生法の改正などに携わった。また、1972年に国立療養所課長に就任すると、ハンセン病入所者の生活環境改善に取り組んだ。
その後、厚生大臣官房審議官、公衆衛生局長、医務局長を歴任し、1983年退官。
退官後も、財団法人藤楓協会理事長、高松宮記念ハンセン病資料館館長、国際医療福祉大学総長などを歴任。1993年に寄付金を募って高松宮記念ハンセン病資料館を開館させたほか、らい予防法廃止運動に取り組んで廃止を実現。
さらに、らい予防法人権侵害による国家賠償訴訟では証人となって患者勝訴に導いた。また、「精神障害者の社会復帰と社会参加を推進する全国会議」の創設にも関わり、1987年の精神保健法(後の精神保健福祉法)等の法改正に貢献した。
1993年にWHOから社会医学・公衆衛生分野におけるノーベル賞といわれるレオン・ベルナール賞を授与された。2010年12月7日、埼玉県内の病院で死去。86歳没。実はこれに先立ち大谷さんは長男(精神科医)と弟さんをうしなったばかり。娘さん一人に見送られての旅立ちだったらしい。資料:ウィキペディア
杜父魚文庫
コメント