日独テロリストの相違についての拙稿「戦後の日独に残された課題」(「翼」No.93掲載)。今回のこの事件、当時の日独テロ活動と照らし合わせてみると、なぜか、共通点が見られるから面白い!
<<国家の根幹である政治力も経済力も軍事力も、決め手は情報力とこれに連動する宣伝力=プロパガンダにある。そう私は思っている。
なぜ共産主義が20世紀後半、世界の寵児として、国際社会に大なる影響を与えたか。その謎を解く鍵は情報戦ならぬ巧みな宣伝力にあったことを見逃してはならない.
かつて落合道夫著「スターリンの国際戦略から見る大東亜戦争と日本人の課題」によると、「ソ連スパイの特徴」とは、「一般にスパイの任務は情報を盗み出すことであるが、ソ連スパイはさらに各国の政策をソ連寄りに動かしたことが特異的である。
三十年代の西側社会ではマルクス主義者が大恐慌を予測したとして共産党の信奉者が爆発的に増えた。彼らはソ連やスターリンを理想化し、スターリン独裁下で理想主義的共産主義者が絶滅されたソ連の実態を知らなかった。このため多数の良家出身の高学歴者が過った理想主義から政府や重要機関に就職すると進んでソ連の協力者になった。」とある。
情報力とこれに連動する宣伝力=プロパガンダを抜きにし、軽視した故に、同じ第二次世界大戦敗戦国として戦後ゼロからスタートしながら、ドイツに格段の差をつけられ、国際社会における存在感が日増しに希薄になっている日本の現状を見れば、これは一目瞭然である。
とかくクロかシロかの一元論で幕引きをしたがる日本人にとってもっとも苦手とする分野だからで、その典型的な例が1960年代後半から70年代にかけて日独両国を震撼とさせたテロ活動「日本赤軍」と「ドイツ赤軍」に見られることだ。
何しろ日本ではこのテロ活動の位置ずけは、単に「若者たちの不満の捌け口としてしか捉えなかった」に対し、一方ドイツでは「第二次大戦後の米ソ対立による冷戦における熾烈な情報戦にあり、その延長線に、国際社会を二分する政治プロパガンダ」と解釈していたからだ。、
このテロ対策の解釈の相違が、畢竟、その後の日独両国の分岐点になったと見られている。いうなればドイツの「赤軍」とは米ソによるイデオロギー代理戦争におけるソ連側の兵士として存在するもので、従って、一連のテロ活動とは、東ドイツが西ドイツの若者たち(主として学生)を標的に挑発するという情報戦=政治プロパガンダである。、
だからこそ、彼らは公然と反帝国主義、反資本主義、反米をスローガンに、マルクス主義による世界革命を目指し暴力よる武力革命という実力行使を仕掛けてきたのだ。
デパート放火事件、銀行強盗、爆破、誘拐、窃盗、殺害がそうで、しかも彼らは良家の出で高学歴が多く、それだけに西側インテリ層にとっても隠れシンパとしてヘルプしやすいと利点を備えていた。
当時の彼らのテロ活動がいかに凄惨だったか、主な標的が西ドイツの政界、財界、官界の要人であり、政府の公共施設や米軍駐留基地や軍施設の破壊にあり、ピストルやライフル、手榴弾、対戦車ロケット・ランチャーなど自家製凶器を含めありとあらゆる破壊力の強い武器や爆薬が使用した上、その犠牲者たるや、これまでに明らかになっているだけでも、死者体制側要人三十数人、テログループ側二〇数人で、負傷者に至ってはおびただしい数に上っている。
それだけに、取り締まる側はいかに神経を尖らせていたか。私など、当時各地で頻発したドイツ赤軍による残酷極まる実態を追跡しようと、テロのシンパと接触したり、テロに関する書籍を手当たり次第入手しようと足しげく書店に足を運んていたところ、不審な目で見られ、危うく警察に通報されそうになった苦い記憶がある。
やがて、彼ら中心的メンバー「第一世代」は次々と捕縛され収監された。ところが残った「第二世代」だが、報復を誓い、さらに凶暴になり性懲りもなく、要人たちを誘拐したり暗殺している。
一九七七年九月五日に発生した西独経営者連盟会長の誘拐がそうで、より強力なパンチを官憲に食らわすためと称して、、その四週間後の十月十三日、彼らはパレスチナ解放人民戦線(PFLP)と結託し、ハイジャック事件を起こしている。
スペイン・マヨルカ島でバカンスを満喫した休暇帰りの乗客八六人と乗務員五人を乗せフランクフルトへむかう便で、離陸したとたん、四人組のテロリストたちにハイジャックされ、ソマリアのモガディシュで強制着陸することになったのだ。
その釈放条件とは、「収監中の十一人のドイツ赤軍メンバー釈放と同時に現金一五〇〇万米ドルを用意しろ」という。
これには先例があった。偶然日本でも、このドイツハイジャック事件勃発約二週間前、「日本赤軍」によるハイジャック・ダッカ事件が発生、彼ら「日本赤軍」は「服役及び勾留中の9名釈放と600万ドル」を要求、窮地に陥って狼狽した日本政府は、超法規的措置により福田赳夫首相を通じて「人命は地球より重い」と言わしめ、全要求を飲んでしまった。
この情報を一部始終把握=キャッチしていたドイツ赤軍である。「これ幸い渡りの船」とばかりこれに便乗することにしたのだ。
ところが、西ドイツでは様子が違った。当時の首相シュミットは、「国家がテロリストに降伏しては国家は成り立たぬ。従ってテロリストには屈しないし、一切交渉しない」と彼らの要求をはねつけてしまったのだ。
同時に、時間稼ぎをしつつ、ドイツ警察テロ対処精鋭特別部隊(GSG9)を現地に派遣、機会を窺って事件後五日目、無事乗員乗客を救出した。
結果、ハイジャック失敗の報を受けた収監中の赤軍は獄中で自殺、仲間の自殺を知った残党の一部は、報復として誘拐中の会長を殺害したもののその後なりを潜めてしまった。
時々散発的に要人暗殺事件が起きることはあっても、多くは海外へ逃亡したり、東ドイツに引き取ってもらう形で旧東独潜伏したからである。
下っ端「ドイツ赤軍」に至っては、暴力によるテロ活動では民衆の理解を得られないと悟り、議会民主政治の中で彼らの主張を生かそうと、ある時期から、「環境問題」に着目し「緑の党」を立ち上げて政党活動へと転向していった。
その「緑の党」だが、設立は一九七九年、一九八三年には早くも連邦議会で議席を獲得、エコ問題を中心に、赤軍テーゼ「反核兵器・反軍国主義・反NATO平和主義、反消費社会=循環型社会」を盛り込み着々とと支持者を伸ばしていった。
そして、結党20年目一九九八年には、社会民主党と連立政権を成立するまでに成功させた。その代表的な人物がフィッシャー副首相兼外相である。
彼は一九七五年まで左翼過激派団体「革命闘争」メンバーとして、数回、警官と衝突し、火炎瓶を投げたり、警官の頭を殴るなどして重傷を負わせている。
その彼も「緑の党」に入党し、ヘッセンの州議会議員を振り出しに連邦議会議員として活躍し、シュレーダー政権では副首相兼外相に就任、世界をマタに掛けてドイツ外交に専念するや、絵に描いたモチ的平和主義をかなぐり捨ててしたたかな国益中心の外交を展開し、「あのドイツ赤軍の片割れが」と世界をアッと言わせたものだ。
理由はいうまでもない。ドイツは、情報とその政治プロパガンダに掛けて、敵とする者までの味方につけてしまうテクニックに長けているからだ。
テロ活動に携わるもの、たとえ反政府派であっても、緒戦その底流には愛国的心情が流れている。その琴線に触れることで、彼らを骨抜きにしてしまう。
「アメとムチ」もその一つで、これを巧みに使い分けてみせる。
ムチで収監中のトップクラスのの生還を一人たりとも許さず、自殺という名目で根絶してしまう一方、比較的温和なテロ活動家にはアメで、カネと地位をチラつかせ、社会への復帰を促す。
このアメ工作で忘れてならないのは、二重、三重のスパイを大いに奨励していることである。
当然そこにはガセやニセ情報も含まれる。それはそれで、敵に対する撹乱工作=プロパガンダとして利用すれば、スパイの道具として生きるというのだ。
体制側=政府側にとって、もっとも警戒すべきは、情報入手の途絶にあり、そのために情報活動が鈍ることにある。
そこはそれ。さすが戦後東西国家に分断され、冷戦の最前線で熾烈な情報戦をかいくぐってきた情報大国ドイツである。
出来るだけ多くの情報を収集し分析し、活用することで最終的にはテロ活動家をも、国士に作り変えてしまうというのだ。
日本のように、赤軍と言えばたやたら「悪」の権化ときめつけ、追い詰め、仲間内に「警察のイヌ」がいると思い込ませ、内ゲバ工作を仕掛け、自滅に追いやる愚策はしない。
真に日本の国家の繁栄を志すなら、そしてよりしたたかな日本国家を築き上げたいのなら、使いようによっては貴重な日本の国士となる人材を「テロ」というレッテルを貼ることで簡単にドブに捨ててしまわないことである。
そう、情報戦という名のプロパガンダを縦横無尽に駆使することで…・・、>>
杜父魚文庫
コメント