7868 市民運動家の居直り、もしくは窮鼠猫を咬む 西村眞悟

菅直人という人物は、首相官邸に籠もっているが、総理大臣としては動いてないように思う。では、どういう発想で動いているのか。
それは、やはり市民運動ではないか。その駆け引きで動いている。 彼が受け入れるアドバイスは、その運動の方面からしか為されていない。そして、総理大臣が市民運動感覚で動く目的は、延命である。
菅氏が、五月六日、中部電力の浜岡原子力発電所の稼働停止を要請したとき、彼は総理ではなく反原発の市民運動家だった。
何故なら、彼が総理大臣なら、如何に無能であっても、原子力発電の関係閣僚及び関係行政組織には事前に伝達し、要請相手の中部電力にも事前に話を通しておくのが筋であり、国民に対しては、原発の稼働停止による供給電力減少からくる国民生活と経済活動に対する影響を事前に想定して公表し、その影響(不自由、活動低下)を受忍してまでも原発の稼働停止が必要だと説明し説得することが任務だからである。
何しろ、我が国最大の水力発電能力を持つ、あの黒部第四発電所を十個以上合わせた発電量を一挙に止めるのである。国策上の重大問題ではないか。
 
しかし、彼は、五月六日、記者会見場にふらっと現れて、将来予想される巨大地震に対する浜岡原子力発電所の危険な立地を強調しただけで、同原発の稼働停止要請を発表した。
中部電力は、びっくりしただろう。中部電力のみならず、中電から電気を流してもらっている東電および九電、また、重大な影響を受ける関西電力も、驚いたことだろう。
また、電気を工場稼働と生産活動の前提とする産業界は何を思ったであろうか。従って、この事前準備なき唐突な稼働停止要請は、我が国の経済活動に対する重大な萎縮効果をもたらした。
ところで、現在社会には、100%安全なものはない。従って、次の例と、この度、原発に関して菅直人氏のしたことは同じなのである。
(例)、我が国一国においても、自動車事故で毎年1万人近くが死亡し数万人が身体障害者になっている。総体としての自動車の生み出す人的損害、社会的コストは、膨大なものである。この自動車によって既に発生し将来も確実に発生する損害の規模は、まさに現代社会が生み出す巨大な犠牲である。
従って、ある日、菅氏が記者会見し、自動車の危険性を強調して国民に自動車の使用停止を要請し、自動車メーカーに工場の稼働停止を要請した・・・例終わり。
考えてみれば、他にも、食品、酒、薬、ガス、飛行機、自転車など、我々の身の回りには、必要なものではあるが、「事故という危険」が発生するものは山ほどある。
とはいえ、この度の菅氏の原発稼働停止要請は「なるほど」と、受け取られ、事実、中部電力は夫れを受け入れた。
仮に、菅氏が自動車製造停止要請をすれば、受け入れる自動車メーカーはないだろう。原発と自動車のこの違いは、明らかなようで実はあまり分からない。電気は、原発に限らず水力でも火力でも作れる(代替性)という点であろうか。
しかし、菅氏は、この代替性に関して何もシュミレーションせず、産業界に対する影響を考慮せずに中部電力に稼働停止を要請した。
従って、菅氏は、偏に、この度の巨大地震における福島第一原発の事故の「危険性、重大性」を背景にして、それをよりどころに、浜岡原発の稼働停止を求めたということになる。
そこで言いたい。そうであるならば、菅内閣は、もっと福島原発事故の「危険性、重大性」、特に人体に対する影響を専門家に調査点検させて、もっとデーターを公表すべきである。
今まで、原子炉建屋が水素爆発して、「放射能が漏れた!」ということは強調されるが、その漏れた放射能が、どこまで危険なのかということに関する情報は内閣から流れてこない。
菅内閣は、ほうれん草は食べるなといい、立ち入り禁止区域を設定し、飯舘村からは退去せよ、と言うだけである。
反対に、放射線防御学の札幌医科大学の高田純教授は、四月十日に、福島第一原発の正面玄関に平服で立って、「原発周辺での三日間の調査で分かったことは、此処は安全です。だから住民は一日一度は家に帰って大丈夫、甲状腺癌は発生しない」と言っておられた(チャンネル桜放映)。
さらに、低線量率放射線による治療の専門家である稲恭宏医学博士は、たびたび現地、特に菅内閣が三千名の住民の立ち退きを要求している飯舘村に入って、ここの放射線量率はかえって健康によいと公表しておられる。
菅内閣には、これらの専門家の判断は、伝わっていないのだ。仮に伝わっていても無視されているのだろう。また、昨日、立ち入り禁止にされた原発から半径三十キロ以内にある家に住民が二時間ほど「帰宅を許された」様子が報道されていたが、住民各人が持たされていた放射線量測定器の数値が発表されるのかと思っていたら、いっこうに公表されなかった。
その数値が公表されると何か不都合なことがあるのだろうか。例えば、四月十日に、高田教授が原発正門前で実証していたことが正しかったとか。
 
要するに、菅内閣は、原子炉設計者や原子炉専門家の放射能が「漏れた」という指摘だけを一人歩きさせ、その放射能が人体に対してどこまでが有害なのかという放射線医学、防御学の観点からの点検をしていない。
従って、徒に、不安だけが煽られてきた。そして、この生み出された漠然とした不安を背景にして、五月六日に、菅直人氏は、中部電力に対する浜岡原発稼働停止要請を行ったのだ。
この経緯を振り返れば、繰り返すが、菅氏は、総理ではなく、反原発活動家として行動したと判断される。とはいっても、菅直人氏の地位は、我が国の総理大臣である。菅氏もそれを決して忘れた訳ではない。
では、この度、反原発の態度を打ち出した菅氏の、総理としての目的は何か。それは、総理としての「延命」である。
もともと、菅氏は、三月十一日には外国人からの献金が発覚して、首が落ちる寸前だった。その首が巨大地震で繋がった。
しかし、危機に対してやることなす事空振りで無能をさらし、最大の復興対策は、まず菅が総理を辞めること、とまでいわれるにいたり、統一地方選挙では大敗した。そこで最後の延命策は、煽られて増大している原発不安を利用した、「国民の為の決断」を演出すること。
即ち、浜岡原発の稼働停止だ。これは取り巻きの運動家だけの判断だから、関係閣僚や関係省庁、また、地震以来、菅氏自身が急遽粗製乱造した二十を超える「審議会」を無視したし、この夏の国民生活における電力事情、我が国の産業への打撃、等々がどうなるか、どうでもよく、全く配慮する必要も感じなかった。これが彼の市民運動の真骨頂だ。その時、菅氏は、これだけ原発への不安をかき立てられているのだから、歓迎、拍手する国民も多いこと確実だと判断していたのだろう。
反原発の市民運動家として、何とも、したたかではないか。そして総理としては、その地位に居座るため、原発の不安を持ち出して居直り、もしくは、窮鼠の如く猫を咬んだのである。
また、初め脱兎の如く報道されかけていた民主党内の「菅降ろし」の動きは、統一地方選挙の大敗を見て、ぴたりと止まっている。あの脱兎の如きものは、実は臆病な匹夫であった。匹夫たちは、泥船かっら逃げだしても溺れるしかないとびびったのだ。
実に、情けない我が国国政の状況ではないか。我が国の将来の為に、重大な国策として叡智を集めて決めていかねばならない我が国のエネルギー政策が、このような窮鼠や匹夫のただ延命だけの思惑で流れていってよいのか。
杜父魚文庫

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