7936 「歴史の評価」が好きな菅 岩見隆夫

この国はいま歴史的な変わり目にある、とだれもが漠然と感じ取っている。歴史的、というのは後世、歴史に残るほどの大きな転換点という意味だ。
だが、大かじを切る作業が果敢に進められているようでもない。政治家は、<歴史>という言葉が好きである。日本の政治家だけではない。こんなことがあった。
82年暮れ、鈴木善幸首相がさっさと政権の座を去ったあと、マンスフィールド駐日米大使と官房長官を務めた宮沢喜一の3人で会食した。この席で、老練大使が、
「ヒストリー・ウイル・ビー・カインド・トゥー・ユー(歴史はあなたに対して親切でしょう)」と言ってから、続けた。
「政界をずいぶん見てきたが、普通は人間の方が権力を取ろうとする。あなたは権力に対して積極的に出なかった。歴史上とても珍しい例ではないか」
鈴木の潔い引き際を、大使はたたえたのだ。宮沢が「私の履歴書」に書いている。
首相の進退はいつもむずかしい。鈴木は確かに特異なケースで、<歴史>のこういう使い方もあるのか、と感心させられた。
菅直人首相も割合よく使う。最近では、中部電力の浜岡原発停止要請について、
「行政指導であり、私の政治判断だ。評価は歴史の中で判断していただきたい」(13日、参院予算委)と述べた。歴史が評価しないはずはない、と言いたげである。
また、昨年11月、尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件で、野党から弱腰外交を激しく追及された時は、「3年から5年後、歴史の評価に堪えられると確信している」と突っぱねた。便宜的に<歴史>に逃げ込んだ印象だった。
国民新党の亀井静香代表も口にしている。大震災の復興実施本部に野党の参加を求め、自民党に拒否されると、交渉役の亀井は、「歴史の検証に到底耐えられない。(自民党は)かつてのふるさと、悲しい思いがする」(11日、同党議員総会)と嘆いた。
菅は自己正当化のために、亀井は怒りの補強のために、この言葉を使っているところが、両者の性格の違いをみせて面白い。
菅は初の所信表明演説(10・6・11)で、「前総理(鳩山由紀夫)の勇断を受け、政権を引き継ぐ私に課された最大の責務、それは歴史的な政権交代の原点に立ち返って、この挫折を乗り越え、国民の皆さまの信頼を回復することです」と約束したが、1年後、信頼は下落一方だ。とても<歴史的な>政権交代などとは呼べそうにない。
ところで、首相経験者では最年長である中曽根康弘は、<歴史法廷に立つ政治家>と題する一文(著書「日本人に言っておきたいこと」PHP研究所・98年刊に所収)のなかで、
<政治家にとって人生とは結果でしかない。その所業を歴史という法廷において裁かれるのである。
歴史の法廷は、私のささやかな自己弁護などをそのまま受け入れるとは思えない。歴史とは、私の意図などをはるかに超えた巨大なうねりであり、強大な力だからである。
しかし、歴史の法廷がどう裁こうとも、目の前の現実に対処していかなければならないのが政治家である>と歴史への恐れをつづっている。きのう27日、中曽根は93歳の誕生日を迎えた。
29歳若い菅に、最長老の謙虚な歴史観が理解できるだろうか。(敬称略)
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