7970 「流星光底長蛇を逸す」が読まれている  古沢襄

二〇〇七年八月二九日の杜父魚ブログ記事「流星光底長蛇を逸す」に読者のアクセスが集中した。NHKの大河ドラマ「風林火山」で描かれた川中島の合戦なのだが、上杉謙信の軍略が信玄の軍師・勘助に勝ったドラマを四年前に書いていた。
<<永禄四年、 信玄は二万の大軍を率いて川中島を望む海津城に入城した。対する謙信は一万二〇〇〇の軍を率いて妻女山に陣を敷いている。そこで勘助は武田軍を二隊に分けて、一万二〇〇〇が妻女山を攻め、信玄自らは八〇〇〇の旗本軍で川中島に布陣する策を立てた。
妻女山から下る謙信軍を川中島で迎え撃ち殲滅する策である。高坂昌信が率いる一万二〇〇〇は月の出る前に海津城を出て、妻女山へ向かう丘陵を音をひそめて登っていった。卯の刻(午前六時)が攻撃時間。
寅の刻(午前四時)に信玄、勘助ら八〇〇〇が海津城を出て川中島に布陣する。この日は例年になく濃霧が立ちこめて一寸先も見えない。
この時、謙信は海津城から炊煙がいつになく多く立ち上るをみて、武田軍が動くことを察知した。動くとすれば、一隊を妻女山に向け、一隊は川中島に布陣するとみた。まさに軍神・上杉謙信らしい神がかった察知力である。勘助の策を見事に見破っている。
謙信の行動は素早かった。妻女山に一兵も残さず一万二〇〇〇の全軍が、濃霧を利用して川中島を渡った。これを江戸時代の頼山陽は漢詩「川中島」で「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)と詠んでいる。
この戦は裏をかかれた武田軍の悲惨な消耗戦となった。信玄の弟・信繁、勘助、諸角虎定、初鹿野源五郎ら名だたる武将が次々と討ち死し、信玄の本陣にも謙信軍が迫った。馬を駆った謙信は名刀・小豆長光を振り上げて、信玄に三太刀切りつける。信玄は軍配で防ぐが肩先に傷を負った。
この時に高坂軍一万二〇〇〇が駆けつけた。形勢をみてとった謙信は兵を引き、犀川を渡河して善光寺に撤退した。頼山陽の「流星光底長蛇を逸す」の場面である。勘助、謙信の勝負は明らかに謙信の勝ちであった。>>
「流星光底長蛇を逸す」記事のタイトルだけを見れば、今の政争劇で小沢・鳩山連合軍が菅首相の首を取り損なったことを書いていると思った読者が多かったのではないか。
http://kajikablog.jugem.jp/?search=%CE%AE%C0%B1%B8%F7%C4%EC%C4%B9%BC%D8%A4%F2%B0%EF%A4%B9
菅首相は鳩山前首相の早トチリを突いて、内閣不信任決議案を大差で否決し、続投に強い意欲を示す「居直り」姿勢を露骨にしている。この川中島の合戦は菅氏の作戦勝ちなのであろう。
だが、この首相の「居直り」姿勢に、民主党内では「菅降ろし」の動きが再燃。野党も参院への首相問責決議案提出の検討に入った。首相と国会が対立する様相を帯びてきた・・・と朝日は書いている。一度使った”だましのテクニック”は二度とは使えない。
政界の川中島はまだ続く。
<菅直人首相がいったん表明した辞任意向を打ち消すような発言を続けている。3日の参院予算委員会では「私はそんなにわかりづらい言葉を使ったわけではない」と釈明しつつ、「これからの作業にこれまで以上に全力を挙げて取り組みたい」と語り、続投に強い意欲を示した。首相の「居直り」姿勢に、民主党内では「菅降ろし」の動きが再燃。野党も参院への首相問責決議案提出の検討に入った。首相と国会が対立する様相を帯びてきた。
首相は3日の参院予算委で、自らの辞任時期について「大震災の復旧、復興こそが重要であり、原子力事故の収束こそが最優先だ」と指摘。「一定のめどがつくまで、ぜひとも私にその責任を果たさせていただきたい」と強調した。
2日昼、不信任決議案採決前の民主党代議士会で、首相は「大震災の取り組みに一定のめどがついた段階で、若い世代の皆さんにいろいろな責任を引き継いでいただきたい」と辞任を表明した。だが、同日夜の記者会見では辞任時期を明言せず、逆に原子炉を100度未満の安定状態に保つ「冷温停止」を取り上げ、来年1月ごろを念頭に置いた辞任を示唆。3日の国会答弁でも政権運営に意欲を示す発言を続け、同日の閣議でも積極的な法案提出を呼びかけた。
代議士会に先立ち会談した鳩山由紀夫前首相とのやり取りで「退陣」について合意があったかどうかを参院予算委で問われると、首相は「そういう約束には全くなっていない」と強く否定。代議士会の発言について「素直に理解していただければ、私の心情は話したことの中に表れている」と訴えた。(朝日)>
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