7979 10年目に辿りついた9.11の想い 加瀬英明

オサマ・ビン・ラディンが、パキスタンの首都イスラマバードの近郊の隠れ家に潜伏していたところを、アメリカの特殊部隊によって急襲されて、射殺された。
 
行年五十四歳。一代の梟雄だった。ビン・ラディンは一九五七年に、モハメド・ビン・アワド・ビン・ラディンを父親として、サウジアラビアで生まれた。
父は一九三一年に、イエメンからサウジアラビアに一介の労働者として移民して、辛苦力行して、サウジアラビア最大の建設業者となった。国王の宮殿を建てるなど、王室に取り入って、サウジアラビアの土木建設事業をほぼ独占することによって、巨富を築いた。
オサマ・ビン・ラディンは、父の四番目のシリア人の妻を母として、父の十七人目の子、両親の四人目の子として生まれた。父は五十人以上の子をのこした。
オサマは巨富の遺産の下、少年期をすごした
オサマが十一歳の時に、父が死んだ。母とオサマと兄弟は、巨額の遺産を相続した。オサマ少年は馬を愛して、十五歳の時には、ひとかどの厩舎主となっていた。十七歳で親族の娘を最初の妻として、娶った。
 
オサマは青春を謳歌した
オサマは金にあかせて、稀代のプレイボーイとなった。ロンドンのナイトクラブや、カジノで痛飲し、遊びに耽った。
鳩山邦夫法相(当時)が、「私の友人に、オサマ・ビン・ラディンと親しい者がいる」と述べて、失笑をかったことがあったが、作り話ではなかったと思う。私のロンドンの友人のなかにも、オサマとクラブや、カジノで一緒に遊んだという者がいる。
もっとも、アメリカの情報当局は、オサマがヨーロッパを訪れたことがないと、否定しているが、酒色に耽っていたことを、認めている。ロンドンではなく、レバノンのベイルートか、エジプトのカイロだったかもしれない。
ところが、ある時、オサマ青年は放蕩生活に飽きて、敬虔なイスラム教徒となって、原理主義に傾倒するようになった。おりから、ソ連がアフガニスタンを侵略すると、アメリカのCIAがソ連軍と戦うために、中東でイスラム青年を数万人も募り、ゲリラとして兵器を与えて、アフガニスタンへ送り込んだ。
ムジャヒディンの一員となる
これの青年たちは、「ムジャヒディン」(神の戦士)と、呼ばれた。アメリカの代理戦争だった。これらの青年たちは、ソ連軍がアフガニスタンから敗退すると、アメリカを敵とするようになった。
ムジャヒディンはCIAの申し子であり、アメリカ製だった。アメリカは飼犬に手を、噛まれたようなものだ。
ビン・ラディンはムジャヒディンに加わって、アフガニスタンで戦った。このあいだに豊富な資金を使って、自分をリーダーとするアル・カイーダ(カイーダは「基地」を意味する)を、組織した。
ソ連軍が撤退した後に、アフガニスタンを厳格なイスラム原理主義のタリバン政権が、支配した。ビン・ラディンはタリバン政権に資金を提供して、アル・カイーダの根拠地とした。
 
オサマ・ビン・ラディンの誇りの自動小銃
ビン・ラディンは死ぬまで、アフガニスタンで自分が殺したソ連兵から奪ったという、カラニシコフ自動小銃を持っていた。ビン・ラディンがほんとうに、そのように勇ましく戦ったのか、分からない。
二〇〇一年九・一一事件後、ブッシュ政権がアフガニスタンに武力攻撃を加えて、タリバン政権を倒した。タリバンとアル・カイーダが地下に潜って、今日に至っている。
第一次大戦までイスラム世界を指導していたトルコ帝国が、ドイツと同盟して敗れると、北アフリカから中東にいたる広大なトルコ領が、ヨーロッパ列強によって分割された。
この結果、イスラム圏のエリートは、西洋とのあいだにあまりにも大きな差をつけられたのに愕然として、近代化というと、西洋化に取り組んだ。
〃トルコ共和国の父〃となったアタチュルクは、トルコの脱イスラム化を強行した。イスラム法にかえて、西洋の民法、刑法を導入し、学校教育で『コーラン』を教えることや、メッカ巡礼を禁じるなど、世俗化をはかった。
同じように、ペルシア(イラン)でも、パーレビ皇帝が同じように、脱イスラム化政策を進めた。女性が顔を隠すベールをかぶるのを禁じて、違反している女性がいると、巡回する兵士が銃剣でベールを両断した。
第二次大戦後は、イスラム圏は社会主義思想の高波によって洗われた。
エジプトナセルのクーデター
エジプトで一九五二年にナセル中佐がクーデターによって、ファルーク王制を倒すと、アラブ社会主義を標榜した。
イラクとシリアで、社会主義政党のバース党が政権を握って、イスラム教を旧習として排斥した。サダム・フセイン政権がそうだったし、現在のシリアのアサド政権も、バース党による支配である。
 
アフガニスタンに共産主義政権誕生
アフガニスタンでは一九七八年にクーデターによって、共産主義政権が登場した。国名が、アフガニスタン民主人民共和国に改められた。翌年、アフガニスタン政府の要請によって、ソ連軍がアフガニスタンに進駐した。イエメンでも、ナセル政権の支援をうけて、社会主義政権が生まれた。
ところが、一九八〇年に入ると、イスラム圏が突然のように大きな力をえて、イスラム教が力を吹きかえすようになった。今日は、イスラム教の黄金期のようにすらみえる。
イスラム圏の力は石油から
イスラム圏の潮の流れが、大きく変わったのだ。いったい、何が起ったのだろうか?
一九七二年と七八年に、OPEC(世界石油輸出国機構)が二回続けて、それまでは安かった原油価格を引きあげたために、〃石油危機〃が先進諸国を襲った。その結果、先進諸国の大統領や、首相や、財界人が〃アブラ乞い〃のために、列をつくって、中東詣でをするようになった。
それまで中東のイスラム圏は、裏庭のように扱われていたのに、先進諸国から脚光を浴びて、重要な存在となった。
イランのホメイニ革命はさらなる新しき風を
一九七九年に、イランでホメイニ革命によってパーレビ帝政が倒れて、イスラム原理主義国家となったことも、イスラム教徒を励ました。
イスラム圏は十六世紀までは、天文学、医学、建築学、航海術から、哲学まで進んだ文明を誇って、ヨーロッパのキリスト教世界のほうがイスラム圏から、先進技術や、知識を学んでいた。
ところが、一五一六年にイスラム・アラブ連合軍がトルコ軍に敗れた結果、北アフリカから中東全域が、トルコの支配下に組み込まれた。
トルコの支配のもとで、いっさいの進歩が停まってしまった。そのかたわら、ヨーロッパでルネサンスが起り、ヨーロッパが先進文明として、イスラム圏にとって代わるようになった。
イスラム圏は、ヨーロッパを後進他域として見下していたことを忘れていないが、とくにトルコ帝国が第一次大戦に敗れて瓦壊すると、キリスト教圏に対する劣等感によって嘖まされるようになった。
それが、イスラム圏は原油価格が高騰したことをきっかけとして、自信を回復した。イスラム教の力が甦って、キリスト教圏に挑戦するようになった。
イスラム圏は政治的な津波に洗われている
これは、先進諸国にとって自業自得だった。イスラム・テロという妖怪を、〃アラディンのランプ〃から引き出したのは、先進諸国民のとどまることを知らない欲望がもたらした、石油への中毒症状である。
 
いま、イスラム圏が政治的な津波によって、洗われている。もし、イスラム原理主義がエジプトを乗っ取り、サウジアラビアが揺れるようになったら、大変だ。
杜父魚文庫

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