昨日六月六日、二年前の秋に続き、再び関ヶ原を訪れた。この度は、堺を中心とした二十名ほどの仲間とバスで関ヶ原に走り、歴史資料館前で、「日本人が知ってはならない歴史」の著者である若狭和朋先生と合流した。この待ち合わせ地点は、徳川家康が敵将の首実検をしたところである。
なお、若狭和朋著「日本人が知ってはならない歴史」、同続編、同戦後編の合計三冊(朱鳥社)は、現在の最大の政治課題即ち「我が国を正常に戻して国家再興を成し遂げる」ための土台となる歴史観を具体的に述べた重大かつ貴重な書である。
したがって、従来の大学における「戦後の歴史学者」や「戦後の歴史学教授」は、この本が存在することに目をつぶり、その通りであるか、間違っているか、いずれの認識であるのか、判断を放棄している。「知ってはならない歴史」を知ったと言えば、ではお前は今まで何を教えてきたのか、との点検を迫られるからである。
例えば、伊藤博文をハルピンで射殺したのは、朝鮮人の安重根だと我が国の歴史学者や大学教授は教えてきたし、韓国や朝鮮でもそうだと思って安重根は「英雄」となっている。しかし、安はブローニングのピストルで片膝をついて下から上に伊藤を狙ったのだが、伊藤の体内から見つかった弾丸は上から下に貫通したフランス騎兵銃の銃弾である。従って、実際に伊藤を狙撃して射殺した者は、安重根ではない。
「日本人が知ってはならない歴史」は、この重大な事実を指摘するが、歴史学会は何故反応しないのか。反応できないのか。
関ヶ原に戻る。若狭先生と家康首実検跡地で落ち合った後、我々は再び若狭先生を案内人にして関ヶ原を見ることにした。つまり、若狭先生をプロイセン陸軍のモルトケの推挙で日本に来た明治初期の陸軍大学校の教官、戦術の権威、クレメンス・ブィルヘルム・ヤーコブ・メッケル(プロイセン陸軍少佐)に見立てて参謀旅行をした。
このメッケル少佐の参謀旅行の時、東条英機の親父の東条英教や日露戦争で世界最強のロシア騎兵と対峙して打ち勝った秋山好古などが学生として同行していた。
メッケル少佐は、学生を連れて石田三成が陣を敷いた笹尾山の東の丸山に登って眼下に東西に広がる東西両軍の布陣を観察したうえで「西軍圧勝」との判断を下した。
しかし、西軍に属していた南正面の松尾山に陣を敷く小早川秀秋が裏切り、同じく西軍の南東方面の南宮山にいる毛利秀元が吉川広家に押し切られて裏切ったことを知らされ、家康の東軍勝利を軍事的要因ではなくメンタルな要因によるものであると納得したという。
昨日は、丸山には径がなくなっていて登れないので、石田三成の笹尾山と徳川家康の最終陣屋との中間地点にある「決戦地」の碑から東西両軍の布陣を見渡した。
なお、慶長五年(一六〇〇年)九月十五日午前八時の会戦開始直前の家康の本陣は、笹尾山からは見えない遙か東の桃配山であったが、激戦開始四時間後の小早川の裏切り直前の家康本陣は、笹尾山からすぐ下に見下ろせる。
その時両者の直線距離は七百メートルほどに迫っていた。昔の人は、遠目がきくので両軍は互いに相手の大将の表情が見えるところで勝敗の分岐点を眼で確認していたことになる。
なお、若狭先生は、松尾山を第一裏切り山、南宮山を第二裏切り山と呼ばれた。
さて、この関ヶ原で我が国の近代さらに現在が決定されてゆくのであるが、前回、強く印象に残った点と、今回強く印象に残った点が違うので、このことに関して述べておきたい。
前回は、メッケル教官が「西軍の圧勝」と判断した布陣のなかを最終陣屋(現在の資料館)まで本陣を進めてきた徳川家康の「胆力」に舌を巻いた。
地形とその中での西軍の布陣状況は東に向かって虎が口を開けているような格好である。しかし、家康は東からその虎が口を開けている中に入ってきたのだ。驚くべき胆力だと言わざるを得ない。
家康を大阪夏の陣で堺で死んだかも知れない「狸親父」だと見くびっていたのは間違いだった。彼は狸ではなく、剛胆な野戦軍司令官として関ヶ原に臨んだ。
前回は、以上のような強い印象を受けた。
しかし、今回は、家康の剛胆よりも、歴史は裏切り者によって方向付けられた、という点に印象が強くなった。小早川秀秋、後に家康の首実検場におずおずと姿を現すこんなつまらん奴の裏切りで現在に至る歴史が方向付けられたとか思えば、少々腐る思いがする。
そして、現在の政治状況を思い起こさざるを得ない。与党の旨味だけを十分に味わい尽くしながら、昨日、菅総理大臣の不信任に賛成すると子分を集めて息巻いていたと思えば、今日、さっさと議場から逃げている。
裏切りで事態が変わる、逃げ足の速い奴が事態を変える。騙すのが上手い奴、ペテン師が流れを変える。之が今の政治で、かつて松尾山(第一裏切り山)にいたのと同じ奴ら、あの臆病な馬鹿者どもネズミどもが、そっくり永田町に生息している・・・少々気が滅入る。
以上が、この度の関ヶ原の印象であった。
とはいえ、また思う。この狭い盆地の関ヶ原で、我が国の近代そして現在が決定されたことは確かである。その為に、この戦野に屍を晒した東西両軍の将兵は七千人。
彼らは西塚および東塚に分けられてこの地に埋葬された。
家康本陣跡地には、家が途絶え弔う人もない死者を慰霊する為に神社が建てられている。両軍の死者七千ということは負傷者はその十倍を超えるだろう。従って、関ヶ原の合戦における両軍の人的消耗は死傷八万人ということになる。一日の合戦におけるこの消耗の規模・密度は、その時の世界戦争史上空前のことではないか。
やはり、この人達の命をかけた奮闘の中から我が国の運命が決っせられてきたと判断すべきだ。これが歴史の大道だ。
そして、この度、敗軍の将である石田三成の最後を思う。石田三成は、伊吹山中で東軍の兵士に捕縛され京都に送られ洛中を小西行長や安国寺恵瓊とともに引き回され六条の河原で首をはねられた。
その途上、三成は湯を所望した。警護の武士が湯のかわりに干し柿を与えようとすると、三成は体に悪いから「食うまいぞ」と答えた。武士が、只今首を刎ねられる者が何を言うかとあざ笑うと、三成は「大事を志すものは、我が首を刎ねられる間際まで命を惜しむものだ」と答えた。三成は、正義のために戦ったという自信の元に臆せず始終平然としていたという。
刑場の六条河原に引きすえられた三成の面前に黒衣の僧侶が近づき、最後の経文を誦して三成を安心立命させようとした。
しかし三成は、既に自ら安心立命し読経は不要と思っていたのだろう。黒衣の上人に対して静かに首を横に振った。
三成は、最後まで、自若として容貌は常の如くであったと言われている。三十年ほど前に、三成の頭蓋骨を掘り出し点検した法医学者の三成に対するコメントを憶えているので次に記しておく。
「女性とみまごうほどの端正な容貌には、無骨なところは微塵もなく、知性の人にふさわしい静けさを湛えていた」
さて、若狭メッケル少佐の引率による将校旅行の締めくくりは、関ヶ原から烏頭坂を二キロほど下ったところにあるお店を借り切ってのどんちゃん。初回もこの店で猪鍋を戴いた。
石田三成が陣する笹尾山の三百メートルほど南の天満山に西軍の一翼を担って陣を敷いた薩摩の島津義弘の軍千五百は、小早川の裏切りにより数百名が消耗してもじっと動かず、両軍の勝敗を見極めた。
そして、東軍勝利が確実になったことを見極めて動き始める。即ち、その目的は、単純明快。薩摩に帰るのである。
そして、その進路は、南東方向の烏頭坂から伊勢街道に抜ける道。しかし、この烏頭坂の入り口こそ、敵の大将徳川家康が陣を敷いているところである。
つまり、朝鮮の役で三千名の兵力で十倍の敵を壊滅させた島津義弘は、関ヶ原で敵の本陣めがけて部下に退却を命じたのだ。
そして、義弘は弟を失うが、島津軍は敵陣を突破して伊勢街道に入り奈良を経て堺に至る。そして、堺から船で薩摩に帰る。
関ヶ原の千五百名のうち薩摩に帰ったのは義弘以下数十名である。千四百名以上の島津勢が累々と屍を関ヶ原と伊勢街道に晒した。
我々は、この烏頭坂で「参謀旅行」の打ち上げをした。鹿児島の高校生は、修学旅行で関ヶ原に来ると、この烏頭坂や島津が陣を敷いた天満山で、「チェストー関ヶ原」と叫ぶという。
驚くべきことに、薩摩では四百年間「チェストー関ヶ原」と叫んでいるらしい。四百年間というと、江戸中期に幕府が島津の力を弱めるために命じた宝暦治水の難事業の中で自決した五十五名の薩摩藩士、それを完成させたうえで腹を切った平田靭負や幕末の藩主島津成彬公や西郷さんも叫んでいたのだ。このようにして薩摩は関ヶ原を忘れず、明治維新のエネルギー、マグマを貯めていった。
このかけ声は、大阪弁で言えば、「コンチクショー関ヶ原」という意味だ。関ヶ原古戦場は訪れるたびに学ぶものが多い。それは、日本人の心意気だ。
この度、関ヶ原を見て、裏切り者によって歴史が創られたのか、と少々腐る思いになったのは、今の民主党の臆病なネズミどもの右往左往を見て不覚にも気宇が小さくなっていたからだった。我々も烏頭坂で、「チェストー関ヶ原」と叫んで焼酎を仰いだ。
杜父魚文庫
7986 関ヶ原・・・ 西村眞悟

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