8002 野田氏が代表選出馬へ、「ポスト菅」へ動き加速 古沢襄

野田佳彦財務相は民主党の代表選に出馬の意向を固めた。岡田幹事長、仙谷官房副長官が支援するという。仙谷氏は野田首相を前提にして、自民党と大連立の打診工作に入った。
<退陣表明した菅直人首相の後継を決める民主党代表選で、野田佳彦財務相(54)が周辺に出馬の意向を伝えていたことが9日、分かった。樽床伸二元国対委員長(51)、小沢鋭仁前環境相(57)が出馬の意欲を示しているほか、鹿野道彦農水相(69)を推す声もある。「ポスト菅」の動きは一気に加速しそうだ。
野田氏は同日の自身のグループ会合では「今は財務相としての職責を果たすのみだ」としたが、その後、周辺に出馬意向を伝えた。
岡田克也幹事長、仙谷由人官房副長官(党代表代行)ら菅政権幹部は野田氏を支援する。岡田氏ら党執行部は、首相の月内退陣、7月上旬の代表選を視野に日程調整をしている。
野田氏は菅政権で財政運営を担当しており、首相の後継になれば、東日本大震災からの本格的復興策を盛り込んだ平成23年度第2次補正予算案に向け、政策の継続性が図れる。
自民党との大連立構想を主導する仙谷氏はすでに、野田氏擁立を前提に自民党幹部と協議に入っている。「野田首相、仙谷幹事長」との観測も出ている。
樽床氏もすでに周辺に出馬の意向を伝えた。小沢鋭仁氏は9日夜、グループの事務所開きで代表選を「視野に入れる」と出馬に強い意欲を示した。鹿野氏を支持する筒井信隆農水副大臣も代表選をにらみ勉強会を開催した。
一方、有力候補とされてきた前原誠司前外相(49)は外国人献金問題で外相を辞任した経緯から出馬に慎重で、9日の会合では「肩に力を入れるタイミングではない。前のめりになりすぎないようにする」と述べた。(産経)>
■野田 佳彦(のだ よしひこ)ウイキペデイアによる略歴
概要県議~民主党代表選挙立候補1957年5月20日千葉県船橋市に陸上自衛隊第一空挺団の隊員だった父の長男として生まれる。学生時代は立花隆に憧れてジャーナリストになることを希望していた。1980年早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業する。
1985年に松下政経塾を1期生として卒業し、家庭教師、都市ガスの点検員、私設教育相談所長、青年政治機構副幹事長を経て、1987年千葉県議会議員選挙に立候補、各新聞社の選挙予想では「野田は独自の戦い」と泡沫候補扱いだったが、当時最年少の29歳で当選する。千葉県議は2期務める。
1992年日本新党結成に参加し、1993年第40回衆議院議員総選挙には日本新党公認で千葉1区から立候補し当選する。日本新党では副代表幹事などを務め細川内閣を支えるが、細川内閣の総辞職、新党さきがけや日本社会党の離脱に伴う羽田内閣の崩壊を経て、野党となった日本新党は解党し、同年新進党結党に参加する。
2000年第42回衆議院議員総選挙に民主党公認で当選し、国政に復帰する。民主党総務局長に就任。2001年民主党ネクスト・キャビネット(次の内閣)で行政改革・規制改革担当大臣に就任する。2002年8月菅直人、鳩山由紀夫の二枚看板(いわゆる「鳩菅体制」)に危機感を覚え、世代交代を図るため同じ松下政経塾の後輩に当たる前原誠司、松沢成文らと「第二期民主党をつくる有志の会」を結成。9月の代表選に立候補するにあたっては、前原との間でどちらが立候補するかで調整に難航するが、民主党若手議員を代表する形で野田が立候補する。代表選挙では敗北するものの、選挙戦を通じて認知度を得る。その後、鳩山代表に政策調査会長への就任を要請されるが、鳩山を支持するために代表選挙の出馬を取りやめた中野寛成の幹事長就任を「論功行賞」と批判し、就任を固辞する。
民主党幹部2002年12月、民主党国会対策委員長に就任する。国対委員長としては、審議拒否をしない方針で国会運営に臨んだ(2003年11月退任)。
2004年5月、次の内閣財務大臣に就任する(2005年9月退任)。
2005年9月の総選挙で民主党が大敗し、辞意を表明した岡田克也党代表の後任選びでは前原誠司を推し、中堅、若手議員をまとめ前原勝利の一因を作る。当初は幹事長に就任予定だったが、菅直人が固辞した国対委員長に就任した。2006年2月に永田寿康が引き起こした堀江メール問題では、当初このメールの信憑性を疑わず永田を擁護する対応をとったこともあり、国会論戦の指揮監督をおこなう立場として責任を取り、同月に国対委員長を辞任した。 なお、このメール問題について、2008年に刊行された民主党秘書らによる『民主党10年史』(第一書林)では「普通の企業なら当然備わっている危機管理と統治能力がなかった」 、「党執行部の仲良しグループ化が生んだ情報囲い込み」が原因だったと指摘している。
2008年8月、「本当の二大政党なら政策論争をしないと意味がない」と主張し、民主党代表選への出馬を表明したが、幹部の松本剛明に強く自制を求められるなど自らのグループを纏め切れず、更にいわゆるメール問題の張本人の一人である野田の立候補には全党的に反発が強く、推薦人(20人)確保の目処が立たず、出馬を断念した。これにより、小沢体制の継続が事実上決まった。これについて2008年9月7日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』で立候補を断念した経緯を語った。
出馬断念の代償は大きく、民主党の次代を担う七奉行と呼ばれた野田は大きな打撃を受ける。結束力を誇った野田グループは出馬断念派と積極派に分裂して解散論も飛び出すほど脆弱な組織となり、馬渕澄夫は退会した。2009年5月の小沢辞任に伴う代表選挙では岡田克也を支援したが、鳩山由紀夫に敗れる。ただ、岡田が鳩山代表の下で幹事長に就任すると、幹事長代理として執行部入りし、復権を果たした。
鳩山政権同年9月の鳩山由紀夫内閣の成立に伴い、防衛大臣就任が取り沙汰されたが、近著で集団的自衛権の行使を主張しているなど、党内や連立政権での意見対立を刺激することが懸念され、見送られた。
野田の手腕を高く評価していた藤井裕久財務大臣の意向により、財務副大臣に就任。2010年1月に藤井が健康上の問題を理由に辞任すると後任候補の1人として名前が上がり、藤井も野田を後任に推薦する意向だったが、菅直人が国家戦略相から横滑りする形で副総理兼財務相に就任した。
菅政権
2010年6月、鳩山首相が辞任を表明。鳩山内閣の財務大臣だった菅が後継首相となり、野田が副大臣から昇格する形で菅の後任の財務大臣に就任した。初入閣での財務相就任は初めての例であり、戦後の大蔵大臣を含めても比較的異例である。
2010年9月に発足した菅改造内閣では財務大臣に留任。2011年1月の内閣改造に際しては、内閣官房長官への横滑りも取り沙汰されたが、野田が財務大臣続投を強く希望したため、菅再改造内閣でも留任した。
不祥事パーティー券購入問題
過去に脱税事件で起訴された男性が関係する会社から、平成19年(2007年)6月に政治資金パーティーを行った際に40万円ずつ(計・80万円)のパーティー券を購入したことが判明した。この男性の関係する会社は前原誠司外相、蓮舫行政刷新担当相、渡辺喜美(みんなの党代表)の政治資金問題にも関与していたことが明らかになっている。
演説力は「党内ナンバー1」と言われており、2005年の総選挙の際は、候補者の応援演説の依頼が岡田代表(当時)、菅直人、小沢一郎に次いで多かった。衆院選挙に初出馬した際にJR津田沼駅前で12時間連続で選挙演説したことがある。企業献金を受け取らず、個人献金のみで政治活動をしたり、毎朝、駅前での演説を県会議員になる前から20年間毎日続けるなどの活動は、松下政経塾出身者の選挙スタイルのパイオニアになっている。
国土審議会委員
政策・政治的主張政策通とされ若手保守系議員を中心とした「野田グループ」の領袖である。
沖ノ鳥島が領土であることを批判した唐家璇中国国務委員(副首相級)に対し、「南沙諸島を実効支配している貴国にとやかく言われる筋合いはない」と述べたことがある。更に、尖閣諸島に中国人活動家が上陸した折、日本の領土であることを確認する国会決議を提案したことがある。
小泉純一郎内閣総理大臣に宛てた質問主意書で「A級戦犯と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない。戦争犯罪人が合祀されていることを理由に首相の靖国神社参拝に反対する論理は不可思議」、「南京大虐殺肯定派の論理は破綻している」と政府の戦後史観の対応の甘さを批判した。
「安全保障基本法」「緊急事態法」の制定を主張している。
かつては永住外国人への地方参政権付与に関して容認派であったが、鳩山由紀夫内閣における永住外国人への地方選挙権付与(外国人参政権)については「今、法案を出して、党内をばらばらにする必要はない。政府提案であっても、議員提案であっても、出すべきではない」と述べ、慎重な姿勢を示し、自身の外国人参政権に対する姿勢については「明確に反対だ。外国人が、帰化の手続きを簡略にできるようにすればいい」と述べている。菅内閣で外国人参政権に明確に反対を表明している閣僚は野田と自見庄三郎の2人だけである。
杜父魚文庫

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