8031 捕虜、「老いの闘い」終わる 岩見隆夫

「異国の丘」を大声で合唱した。何十年ぶりだろうか。学生時代はコンパの席や歌声喫茶で必ず歌ったものだった。街のあちこちにも流れていた。
五月二十三日午後、国会わきの憲政記念館で催された〈全国抑留者補償協議会解散・記念と感謝の集い〉の締めくくりである。哀愁帯びたメロディーが忘れ難く、歌詞は切々としているが、時代の流れとともに古めかしく、いまは歌う者はいない。
今日も暮れゆく 異国の丘に
友よ辛かろ 切なかろ
我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
帰る日もくる 春がくる
三番まで歌い終えると、老齢の元抑留者の一人が言った。
「これ歌ったあと、もう一つ歌ったんだよなあ、何ていったっけなあ」
「赤とんぼ……」
「うん、それ、夕方歌うとねえ、涙が出てくるんですよ」
続いて「赤とんぼ」も合唱した。六十数年前、極寒のシベリアの地で夕暮れ時、望郷の念にかられた日々を、みなさん、思い出しているようだった。
「異国の丘」の作曲者は、やはりシベリアからの復員組で戦後歌謡界の大御所、吉田正さんだが、これには隠れた話がある。日本で初めて歌われたのは敗戦から三年が過ぎた一九四八年八月一日の日曜日、NHKラジオの人気番組〈のど自慢〉だった。復員兵らしい男性が、
「この歌は自分がシベリア抑留中、戦友たちとよく歌った曲です。これで励まされてきました」
と口上を述べ、作詞・作曲者不詳のまま歌った。会場はシーンとなる。ジャーナリスト出身の作詞者、佐伯孝夫さんはラジオでこの曲を聞いて強く魅かれ、ビクターに掛け合って、すぐにレコード化し発売、曲名を「異国の丘」とした。大ヒットする。
ビクターとNHKは作詞・作曲者を懸命に探し、作詞者は増田幸治さんと判明したが、作曲者がわからない。そのころ、帰国した吉田さんは自分がシベリアで作曲した「大興安嶺突破演習の歌」という軍歌のメロディーが日本中に流れているのが不思議でならなかった。
ビクターに名乗り出たが、証拠がなく認められない。しかし、幸運なことに、復員した戦友の一人が吉田さんの譜面を偶然持ち帰っていて、証明されたのだ。戦争秘話の一つである。
◇なぜ未完の悲劇なのか 政治の薄情を感じる
ところで、〈戦後最大の組織的、計画的な拉致事件〉と言われたシベリア抑留者の補償問題は、遅れに遅れた。
ソ連のスターリン首相が〈日本人捕虜五十万人移送〉の秘密指令を出したのは、一九四五年八月八日、対日宣戦布告をした直後である。結局約六十万人がソ連軍に連行された。長期間の収容所生活を送り、極寒・飢餓・重労働のなかで約六万人が死亡している。
生存者の帰還が終了したのは五六年暮れ、最後の引き揚げ船〈興安丸〉が京都・舞鶴港に入港した時だった。連行から十一年余が経過している。全国抑留者補償協議会(全抑協)が結成されたのは七九年五月、以来三十二年間の苦しい運動を経て、今回解散の日を迎えた。現在の生存者約七万人、平均年齢八十八歳。
シベリアの悲劇については、すでに多くの記録、手記、資料が発表されている。全抑協の最後の会長をつとめた平塚光雄さん(八十四歳)の場合、山形の寒村から十五歳で従軍、敗戦後十八歳でシベリアに連行された。
零下三〇度の凍土のもとで四年間、森林伐採などをやらされる。一〇〇グラムの黒パンに、岩塩を溶かしたスープだけの食事、切り倒したマツの実をこっそり食べるのが最大の喜びだったという。二百人の仲間が帰国時には半減していた。帰ってみると、
「共産主義に洗脳された」と中傷され、十年近く就職もままならなかった。
遅ればせながら全抑協を作り、補償を求めたのは、南方で米英など連合軍の捕虜として働かされた旧軍人には日本政府から労賃が支給されているのに、シベリア捕虜に支給されないのは不平等と考えたからだった。しかし、政府、国会は動きが鈍い、司法に救済を求めても退けられた。平塚さんたちは、
「このままでは、労賃もない〈奴隷〉になってしまう。それでは死にきれない。金額の問題じゃない。国は私たちの存在を直視してほしい」
と訴え、国会前に座り込みをしたこともあった。老いの一徹の運動だった。
全抑協がやっと解散にこぎつけたのは、昨年六月、〈戦後強制抑留者特別措置法〉が全会一致で成立したからで、すでに六万二千人が特別給付を申請、認定を受けている。民主党政権下、政治主導の効用の一つといっていい。民主党は批判にさらされているが、自民党政権下では実現しそうになかった。
〈感謝の集い〉には鳩山由紀夫前首相、山口那津男公明党代表ら法律成立に奔走した各党代表が顔をみせて多年の労をねぎらい、平塚会長は、
「まことに喜びに堪えません。長生きしてよかったと一同感動しています。ただ、シベリアで労苦をともにした韓国や台湾・中国の元抑留者の問題も残っています」
とお礼を述べた。しかし、私は釈然としなかった。あいさつを求められたので、毎日新聞の栗原俊雄記者が一昨年出版した『シベリア抑留--未完の悲劇』(岩波新書)を引き合いに、
「遅いといっても、遅すぎる。みなさんはもう九十歳近いですよ。なぜ、未完なのか。私は政治の薄情を感じます。情のこもる政治をしてください」
と述べた。政治家はほとんど会場から退出したあとだったが。
全抑協は閉じたが、すでに〈シベリア抑留者支援・記録センター〉(電話03-3237-0217、FAX03-3237-0287)を発足させ、活動を続けるという。(サンデー毎日) 
杜父魚文庫

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