6月前半をワシントンで過したが、現地の友人たちから、きまったように日本の政局についてたずねられて、困惑した。日本の政治が福島原発のように、溶解している。
もっとも、日本の政治の溶解は、民主党政権だけを責めるべきでない。自民党政権から始まっていた。首相に指導する器量がない。器は有用な材、量は徳のみつるところである。
菅直人氏と鳩山由紀夫氏は、あきらかに首相としての資格を欠いていたが、今日の日本では多くの政治に携わる者が、人として形が整っていないために、政治が歪(いびつ)なものとなっている。
国家を経営する者の条件について考えたが、ドイツ語の「ビルドゥング」Bildungという言葉が浮んだ。
「ビルドゥング」をコンサイス独和辞典でひくと、「育成、教養(育)、陶治、学識、文明(化)」と説明されているが、英語にも、フランス語にも、ドイツ語の他にはない概念であって、人の上に立つリーダーをはじめとして、人として望ましいありかたを意味している。
コンサイスの「ビルドゥング」の語解ではよく分らないが、陶治が近いものの、教育、教えることも、学識も、意味していない。あくまでも自己啓発、自己教育である「ズィッヒ・ビルドゥング」sich Bildungという意味でしか、用いられない。
人の内的な精神(エトス)を形成することにあり、成熟して人格、人間らしさを備えることをいう。このためには、もちろん学識も重要であるが、学識にもとづいて、ものごとの本質をとらえる能力である見識が求められており、小手先の知識であってはならない。
「ビルドゥング」は、とくに古典教養と歴史についての知識が重視されたが、思考や、信念だけに留まってはならなかった。信念から発する行動が、伴わなければならなかった。
「ビルドゥング」は、プロシアの文相を勤め、ベルリン大学(現フンボルト大学)の創設者となったウィルヘルム・フライヘル・フォン・フンボルト(1767年~1835年)が、提唱した。フンボルトは、ゲーテ、シラーとも、親交が篤かった。
「ビルドゥング」については、欧米において多くの研究書が刊行されている。
「ビルドゥングスロマン」といえば、同時代のドイツ文学を風靡するようになった、啓蒙浪漫運動だった。人格は人として備えているべき、情想を欠いてはならなかった。人としての情けである。
日本の政治から情操を奪って、政治のあるべき形を損ねたのは、小泉純一郎首相(当時)だった。それとも、世相だろうか。私は厚生省と親しくしてきたが、厚生官僚がもっとも忌み嫌ったのが、小泉厚相だった。
小泉厚相は厚生官僚に業者と会う時に、コーヒー1杯以上の接待を受けることを禁じた。それでは役人と業者とのあいだに、心が通じ合わない。
日本が物的に豊かになるのにしたがって、国民が物的なことにしか、関心を向けなくなったために、心のゆとりが失われた。
政界だけではない。このような嘆かわしい風潮が、社会全体に瀰漫するようになっている。
大相撲は国技である。八百長が御法度となったために、星の貸し借りが禁じられた。情けが、日本文化を支えてきたのではないか。情けがなくなったら、国技ではない。
もちろん、政官の接待はあくまでも常識の範囲内で、許容すべきものである。角界の星の貸し借りも、情けのなかに留めるべきだ。
日本国民が物的に豊かになったために、その瞬間の快楽を追って、刹那的になった。政治を預かる者も、その場を凌ぐことしか考えないから、国家の未来を描くことができない。
未来は過去の延長であるのに、政治に携わる者が歴史を学ぼうとしないために、日本が漂流している。リーダーは、未来への案内人であるはずだ。刹那にしか生きないから、未来にも、過去にも関心がない。根がない草も、国家も、萎れるほかない。
政治の劣化は、国民が咎められるべきだ。国民の多くが、人生が楽の連続であるべきだと心得違いして、すべてを娯楽とみなすようになってきている。政治が国家の栄養摂取をはかる主食であるべきなのに、飽食の時代によって冒されて、香味や、刺激を求める嗜好品に変わってしまった。
”小泉劇場”とか、2年前に民主党政権を登場させた”政権交代劇場”は、幕末に群衆が踊り狂いながら伊勢へ向かう道中、沿道の家々にあがり込んで、恣いままに狼藉を働いた、御陰参りを思わせた。
戦後、日本がアメリカの属国となって、安全を外国人の手に委ねたために、アジアの緊張した環境が片時も緩んだことがなかったのにもかかわらず、政府も、大多数の国民も、国の運命について深く想うことがなくなった。政治を預かる者が、狭窄した視野しか持てないでいる。
区議会議員から国会議員にいたるまで、口をひらけば、自分が「政治家」であるという。
書家とか、作家、画家といえば、政治、学術、技芸の分野であれ、一家、一門を立てて、一流になったことを意味している。政治家は目指すべきものであって、自らそう稱するのは恥しい。
杜父魚文庫
コメント