8312 あの「面接事件」から20年 岩見隆夫

大人の争いとは思えない。大詰めの民主党代表選で、先頭を走る前原誠司前外相は、「『挙党一致』とは言ったが『挙党態勢』とは言ってない」
と漏らしたという。態勢なら人事がからむ。また小沢グループに幹事長を取られ、党資金を自由に使われるのはかなわない、と前原発言を解した人が多かった。
その小沢一郎元代表は例によって最後まで態度を明かさず、党内外の耳目を自身1人に集中させる戦法だ。民主党はいつまでこんなゲームを繰り返しているのだろう。
挙党、の行方を野党も注視している。自民党の石破茂政調会長は、「20年前に見た光景だ。数を頼むことがあってはならないとして民主党が誕生したのではないか」(20日、山口市で)
と皮肉った。20年前の光景とは、91年秋の自民党総裁選で、最大派閥竹下派の会長代行だった小沢が、金丸信会長の命を受け、宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博の3候補を呼んで政策を聞いた、あの悪名高い<面接事件>をさす。
今回、各候補が競うように小沢詣でをするのと重ね合わせ、相も変わらぬ卑屈な数頼み、と石破は批判したのだ。だが、この指摘は必ずしも当たっていない。
面接された1人の宮沢は、亡くなる前年の06年春、日本経済新聞に連載した「私の履歴書」のなかで、
<私は候補者なのだから、支持を得るために面接を受けるのは当然だと思っていた。小沢さんは『伺ってもいいですよ』と言ったが、『いや、私が行きましょう』と断った。無礼なことをされたという印象はない。世の中の批判がむしろ意外だった>
と書いている。まだ49歳の小沢が大先輩、72歳の宮沢らを強引に呼びつけた非礼な振る舞い、と当時騒がれたのだったが、宮沢はそれを否定した。渡辺も同趣旨の発言を残している。
後日、小沢はこう言った。「あれはマスコミが故意にゆがめた。僕を悪者に仕立て上げたい時だったから。僕は、候補者から政策論を聞くべきだと言って、金丸さんから了解を取り、3人には『そちらにお伺いするから』と。そしたら3人とも『選ばれる側だから、私のほうが』と言ってきた。まあ、有権者が一番偉いんだから、当たり前の話だね」(「90年代の証言・小沢一郎」朝日新聞社・06年刊)
それが真相だろう。マスコミ批判は毎度のこと、しかし、相手が「伺う」と言っても、「いや、いや」と後輩が出向くのが長幼の序ではないか、などと思う。
面接の結果、小沢は渡辺を推したが、金丸は宮沢を指名した。秘められた舞台裏はまだ語るのが早い。
とにかく、当時の主役は独裁的な権勢を誇ったキングメーカーの金丸だった。小沢ではない。金丸詣では今の小沢詣での比ではなかった。民主政治とはほど遠い異常な権力政治である。
ただ、金丸は、田中角栄と同様人情味豊か、与野党に慕われた。金丸語録もユニークで、「たたいているようで、さすっている。さすっているようで、たたいている。それが政治というものではないだろうか」
などと言う。政治家付き合いの機微なのだろうが、わかるようでわからない。政治の矛盾、異常を茫洋(ぼうよう)とした人間的魅力でカバーしているようなところがあった。
金丸は古い自民党のシンボルだった。新しい民主党のそれを作ってほしい。異常さだけ見習うのでなく。(敬称略)
杜父魚文庫

コメント

  1. yosi より:

    <この人は判っていない>
    ベテラン政治記者の回顧譚には滋味溢れるものがあり、人間観察としては大変面白い。しかし小生のような一般人が感じるのは所謂同業者、この場合は政治マスコミと政治家ということになるが、両者の馴れ合い臭ばかりが気になる。
    例えば田中角栄を「人情家」と持ち上げてはいるが、彼は公共工事、国有財産という国民の「金」を掠め取って財を築き、権力を操ったという事実。平たく言えば「泥棒」である。
    この手法を金丸信、小沢一郎がその器に沿って踏襲し、その後の彼等の政治活動の力の源泉としてきたという事実である。
    故佐藤栄作総理は「絶対に総理にしてはならない男」として田中角栄を警戒したという。正に慧眼であった。
    その後の田中的政治はまともな人間が政治に参加することを阻止し、結果、現在の民主党に代表される無能・痴呆・売国政治家の姿を見るにいたったのである。
    政治家はマスコミの厳しい論評により鍛えられるという。しかるが故にマスコミの存在は民主主義社会存続の必須条件なのである。
    だから田中や金丸の人情云々ということなど、語るに落ちるというもので、権力とまともに対峙した経験がある記者の言葉とは到底思えない。残念である。

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