今週はじめ、東京都西多摩郡日の出町の<日の出山荘>を訪ねた。都心から高速道路を使っても1時間半、ひなびた農村だ。厚い森林に囲まれた山の中腹に山荘がある。
日本人の多くが、「ああ、あのレーガンがやってきた……」とまだ記憶しているに違いない。約半世紀前、中曽根康弘元首相が<武田の落ち武者が拓(ひら)いた一軒家>を買い取り、茅(かや)ぶきの農家風山荘を建てた時はだれも知らなかった。
だが、1983年11月11日、一躍脚光を浴びる。レーガン米大統領夫妻がここに招かれたからだ。夫妻は喜々としてチャンチャンコを着、畳の部屋であぐらをかいて天ぷらを食べ、ほら貝を吹く、その映像が世界中に流れた。<ロン・ヤス山荘会談>である。
28年が過ぎ、いまは地元の町に寄贈されて、<日の出山荘・日米首脳会談記念館>の看板がかかっていた。入館料300円、年間1万人くらい見学にやってくるという。
今回訪れたのは、記念日の11月11日が近づいたのを機に、かつての現場で中曽根から山荘会談の思い出などを存分に聞きたい、という企画を日本BS放送(BS11・放送日11月11日)が立て、私が聞き役を頼まれたからである。
個人的にも、鮮烈な印象だった<ロン・ヤスの舞台>を一度見たいという願望が強かった。戦前戦後の首脳外交史を通じて、これほど話題性に富む場所と成功例はほかにない。首脳の交わり方を示した原点と言っていい。
93歳の中曽根は1年数カ月ぶりの古巣訪問で、広い山荘内をたんねんに、なつかしげに見て回った。レーガン夫妻が日本食を賞味した<青雲堂>の壁には、中曽根が、
<太平洋波静>と大書した額がかかっていた。ロン・ヤス関係を成熟させた中曽根外交の自負を示す文字だ。なにしろ、改めて驚き入るのは、中曽根の周到さである。テレビ収録に入って、まず問うてみた。
「別荘地の軽井沢でも鎌倉でもなく、こんな辺ぴな田舎に小屋を建てた時、将来、外国の客人を招くことが念頭にありましたか」
建てたのは62年だから、中曽根まだ43歳、科学技術庁長官で初入閣したころだ。「ええ、それはありましたね。総理になれるかどうかわからないが、なった時はと」とさらりと答えた。
中曽根の首相就任は82年11月、翌83年1月訪韓に続いて訪米すると、「日米運命共同体」「日本列島不沈空母化」発言などで物議をかもすが、一方でレーガン大統領に、「実は農村に私の山小屋がある。おいでいただけないか」と声をかけ、レーガンは
「もちろん行く。楽しみだ」と快諾していたという。来日はその10カ月後、山荘が建って22年目に実現したことになる。大統領夫妻はヘリで小学校の校庭に降り立ち、山荘までの田舎道を歩くと、両側を埋めた子どもや年寄りが星条旗の小旗を振って歓迎した。演出効果満点だった。
最初から山荘の管理人をつとめてきた原清(72歳)は、感慨深げに振り返る。
「なんといってもレーガンです。私ども半年前から支度をして、夫妻が山荘にいたのは3時間。お見送りしながら涙が出ましたね。続いて、ゴルバチョフ(ソ連共産党書記長)、全斗煥(チョンドゥファン)(韓国大統領)もやってきた」
その3時間が重要だった。日本の生活文化を凝縮したような原風景をレーガンに見せよう、と中曽根は思ったそうだ。そして、
「首脳外交の秘訣(ひけつ)は家族付き合いだから」。来月は野田佳彦首相の外交日程が詰まっている。(敬称略)
杜父魚文庫
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