野田首相は「泥鰌」と「泥臭さ」を、売り物にして登場した。ことあるごとに、米搗きバッタのように、平身低頭している。きっと、60年安保の岸首相のあとを受けて、池田勇人首相が「忍耐と寛容」を看板にして、低姿勢をとったのから学んだのだろう。
状況は大きく違おうが、鳩山、菅両政権が狼藉をつくしたために、国民がみな民主党に手放しで呆れた。民主党がつまづいたから、低姿勢をとって、泥のなかに潜ったほうがよいと、思ったのだろう。
しかし、野田氏には、残念なことに池田首相のような品格も、信念もない。池田内閣が発足してから五十一年たつが、日本が何と堕落してしまったことか。
野田首相の政府、党の人事を見ると、「泥鰌」を称しただけあって、背骨がまったくない。無気味だ。自己保全のために、党内の野合をはかっただけのもので、その意味での「適材適所」でしかない。
一川防衛相は就任すると、自分が「安保保障について無知(シロウト)だから、シビリアン・コントロールが成り立つ」と、得意になっていった。発言が問題になると、「国民も安全保障について知らないから、国民と同じ目線に立てる」と、弁明した。
国防は一大事であり、国家の独立を支える太い柱である。安全保障について無知だとしたら、政治家として失格だ。国民も国防をおろそかにしているといって、自分が責任感を欠如していることを、平然として国民に転嫁したのには、呆れはてた。
文民統制――シビリアン・コントロールは文民が軍人よりも、軍事について見識を備えていることが、求められている。無知な者に防衛省を預けたら、文民統制が働かないことになる。
池田首相は昭和36年に、アメリカのラスク国務長官と箱根の仙石で会談した時に、「日本も国を守るために、核武装したい」と述べて、ラスク長官を驚愕させた。解除されたアメリカ機密文書は、ラスクがそうしてはならないと、慌てて説得を試みたことを記録している。
池田首相は、広島選出の国会議員だった。後に佐藤栄作首相が昭和39年に、ライシャワー駐日大使を首相官邸に招いて、日本も核武装するべきだと述べて、大使を狼狽させている。あのころまでの政治家は、国防について真剣に考えていた。
野田政権は日本経済を建て直すために、増税に執心している。首相が財務省の操り人形であることが、取沙汰されている。もう20年も景気が冷え込んでいるのに、増税をしたら、民の竃の火を消すことになろう。
世界の東西の医療において歴史を通じて、抜き血療法が行われてきた。悪い血を出して、病いを治そうとしたものだった。もちろん、抜き血療法はかえって患者を衰弱させたから、今では邪道として斥けられている。
それなのになぜなのか、財務省は抜き血療法に執心している。経済が弱っているところに、国民に増税を強いるかたわら、政府支出を削減したら、経済から活力を奪うことになる。藪療法に日本を委ねたら、日本を殺してしまうことになろう。
泥鰌鍋は生きている泥鰌を沸騰した鍋に入れると、苦しんでのたうつことから、「踊り鍋」とも呼ばれる。野田政権は国民を、泥鰌鍋にしようとしている。
いまこそ、政府は閣議によって政府通貨の大量発行を決定して、日本経済を蘇生させるべきである。政府通貨には利払いも、償還も発生しない。会社にたとえてみれば、借り入れではなく、増資に当たる。
池田内閣は「所得倍増計画」を行って、日本経済から活力を引き出して、日本を高度経済成長路線にのせた。日本を泥沼から、救い出さねばならない。
杜父魚文庫
コメント