今住んでいる東京・江東(こうとう)区は昔の深川と亀戸(かめいど)が一緒になってできた区。戦争中は1945年3月10日の大空襲によって全くの焼け野が原。次第に工場と倉庫の町に復活した。
それが最近は不景気の所為で工場も倉庫もなくなってマンションの町に変わった。何しろ東京湾岸にできたマンションに地下鉄が開通。都心のオフィス街に直結したから、堪らない。人口が平成23年10月1日現在、外国人21,207人を含めて47万6,107人となった。
敗戦直後の江東区の人口は僅か25,000人だったと聞いたことがある。いまや20倍に膨らんだのだ。
私の住んでいるところからでもJR錦糸町から東京駅まで正味8分しか掛からない。こんな便利な住宅地は東京では珍しい。来年完成する新しい電波塔「東京スカイツリー」も間近に見えると、新築マンションの価格は上昇の一途らしい。
私が学生の頃、墨田区、江東区など隅田川左岸は下町ではなく「川向こう」と言って差別されていた。大学が一つもなく、大きな病院もなかった。しかも交通機関は限られた都電と都バスだけ。我々学生はこの辺りに下宿は探さなかった。
元々は酷い湿地帯で、ところどころが沼状態。そこここに蓮根が育っていたもんだという。そこへ徳川家康が来て、縦横に運河を掘削した。掘られた運河に湿地の水気が流入。乾いた土地へ土盛りして住宅地として開放。町人の町が出来上がった。家康は土建屋の才能があった。
運河の掘削は次々に進められ、川向こうはイタリアのヴェネチアよろしく川の町となった。その昔、赤穂浪士が本所の吉良邸襲撃の物資を船で運べたのも、運河の所為である。東京スカイツリーへの観光客運送にも、川船を運航させるそうだ。
大正12年の関東大震災と東京大空襲で寂しくなった川向こうだったが、始めに地下鉄東西線、新宿線、有楽町線が開通してビジネス街に直結、はじめて通勤圏となった。江東区に限れば人口は年7000人ペースで増え続け47万人を超したのである。
加えて渋谷からの地下鉄半蔵門線も開通。神奈川県―東京―埼玉県に直結した。
膨張する川向こう。マンションに引越してくるのは若いサラリーマンたち。幼稚園児、小学生が溢れた。幼稚園、小学校をあわてて増設。しかし少子化だから、やがて小学校はがら空きに成り、中学校もそうなる。区の財政は音をあげ、遂に江東区は条例を定めて、マンション建設の規制を始めた。
江東ゼロm地帯といわれて事のある、江東区。アレは地下水の汲み上げすぎが原因だったが、現在は地盤沈下はほぼ止まっている。ごみごみした都心に比べれば海風が吹いて空気はまだ綺麗。
都心に近くてマンションは格安とあれば、若者人口が膨張する江東区。都会議員から転身した区長さんも頭の痛いことだろう。
杜父魚文庫
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