まず、本日朝は、光明池という駅の改札口近くに立っていた。仲間と共に、ボーッと立っていたのではなく、ビラを配り訴えをした。
配布したビラは、十一月二十六日(土)午後二時から開催する「拉致被害者救出実現集会」への参加を呼びかけるもの。そのビラの表題は、「日本が拉致問題を解決できない本当の理由」
次に、訴えた内容は、次の通り。
1、東日本を襲った巨大地震と巨大津波の被害から国民を救うのは国政の最大の課題である。同じように、北朝鮮という国家の暴力によって拉致された多くの国民を救うのも国政の最大の課題である。
しかし、野田内閣は、それに取り組んでいない。それどころか、反対に、我が国内で、拉致の犯人である金正日を崇拝することを教える「学校」と称する北朝鮮の宣伝組織である朝鮮高校の無償化を、こともあろうに日本国民の税金で行おうとしている。
2、野田内閣は、増税路線に雪崩れ込もうとしている。これこそ、デフレを更に深刻化させて日本経済を殺す路線であり、巨大津波よりも深刻な惨害を我が国に与えるものである。
日本経済に今必要なことは、国民の可処分所得を増やして消費を活性化させ、内需を拡大することである。野田内閣の目論む増税は、国民から可処分所得を奪う暴挙である。
3、野田内閣は、TPPという訳の分からない枠組みに参加しようとしている。これこそ、グローバリゼイションの美名のもとに、アメリカの多国籍企業というハイエナの餌に日本を提供する暴挙である。
アメリカでは、中間層の所得は年々減少してきた。それに対して、人口の1パーセントの人々がアメリカの富の9割以上を独占するに至っている。四千五百万人のアメリカ人が貧困故に医療を受けることが出来ない。
これが「グローバリゼイション」というかけ声に従った結果なのだ。その証拠に、そのアメリカの将にお膝元であるニューヨークやカリフォルニアで、格差デモという貧富の格差の不当性を訴える暴動が起こっているのだ。
野田内閣と民主党の訳の分からん輩は、グローバリゼイションを叫んで、このアメリカの姿に我が国を落とし込もうとしている。よって為すべきことは次の通り、民主党とその内閣を打倒しなければ、祖国は滅びる。速く打倒しよう。以上が、今朝の駅前の報告。
次に、十月二十一日の沖縄でのことを書きたい。この日、二つの碑に敬礼した。
まず、航空自衛隊那覇基地第83航空隊を訪問し、基地内の慰霊碑に深く敬礼し、七月五日に、戦闘訓練のためにF15戦闘機を操縦して那覇基地の滑走路から離陸し、そのまま消息を絶った川久保祐二少佐の霊を弔った。この綺麗な芝生の丘の中腹にある慰霊碑には、航空隊の川久保さんを含む七名の殉職者が祀られているという。
川久保祐二さん(享年三七歳)は、航空学生からパイロットになった人である。航空学生は、中卒もしくは高卒で航空自衛隊や海上自衛隊のパイロットになろうとする若者をパイロットに育てる教育組織である。
川久保さんは、高校を卒業して航空学生になり、F15戦闘機搭乗員(パイロット)として日々緊張を増す東シナ海の空を守っていた。彼は、高校在学中に空軍のパイロットになろうと心に決めたのだろう。
そして、志を果たし、その任務を遂行中に散華された。まことに、痛惜の念に堪えない。我が国家も、F15戦闘機パイロットという宝を失ったのである。
慰霊を終えて、沖縄に唯一残る基地内の帝国海軍の大砲に案内された。その大砲は、赤く錆びているが今なお六十六年前に敵が上陸してきた西の海を約三十度の仰角で睨んでいた。十五センチカノン砲であった。敵の駆逐艦一隻を沈めたとの説明を受けた。
その時、午後四時、滑走路からグァーというとてつもないエンジン音が起こった。仲間に、「あれ、F15の音や」と言って振り返ると二機のF15が発進していった。仮想敵国機が、我が国の領空に接近してきたのだ。スクランブル発進である。川久保祐二さんを失った仲間が、今も黙々と任務に就いている。
もう一つ、敬礼した碑について述べたい。沖縄本島南端の摩文仁の丘に沖縄戦の全戦没者の名を都道府県別に刻んだ碑がある。第83航空隊を訪れる前に、この碑の横を歩いていた。すると、愛媛県出身戦没者の名が刻まれた碑の前に来た。
その時、深く礼をして敬礼した。ある思いがわき上がったからだ。その思いを次に述べる。
数年前に、愛媛県松山市にある護国神社で話しをする機会を与えられた。丁度、NHKでは、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」が放映されていた頃である。
それ故、松山市の繁華街には、至るところに「坂の上の雲の街」という幟が翻っていた。司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」は、松山出身の秋山好古陸軍大将と秋山真之海軍中将の兄弟と正岡子規を主人公に据えて日露戦争に苦闘の中で勝利してゆく明治の日本を描いている。
従って、松山が「坂の上の雲の街」であることは確かなのであるが、作者の歴史観、また乃木将軍への評価からもたらされる欠落があり、松山の護国神社に入って、その欠落が私には耐え難くなったのである。
「坂の上の雲」は、旅順陥落を次のように言う。旅順を攻める第三軍の乃木軍司令官は、無能であり徒に多くの兵を無意味に殺すだけであったので、総司令部から児玉源太郎が指導に入り、攻撃目標を203高地に定め二十八センチ榴弾砲で猛攻を加えて嘘のように203高地を占領して旅順を陥落させた。
しかし、これは違う。決定的に間違っている。
第三軍が203高地を占領したのは明治三十七年十二月六日であるが、これによって旅順要塞はびくともしていない。確かに旅順の北西の高地である203高地の頂からは、旅順港を望観できる。しかしそれだけであり、旅順要塞は安泰である。
その証拠に、旅順における熾烈な戦いは、陥落までまだ二十六日間も血の雨を流しながら続行しなければならなかった。
もし、第三軍がこの戦いを続けなければ、旅順要塞に籠もる三万人ロシア軍は、北の奉天でロシア軍に対峙する我が日本軍の背後を襲い、遂に日本軍は満州で南北からロシア軍に囲まれて崩壊することになった。このことは、大日本帝国の滅亡を意味する。
では、旅順要塞は如何にして陥落したのか。
それは、乃木希典第三軍司令官が、当初から主攻撃の目標として掲げていた203高地の正反対にある旅順の東側にある東鶏冠山(陥落12月18日)、二龍山、松樹山(同28日~31日)そして望台を翌明治三十八年一月一日午後三時三十分に陥落させたからである。望台は、読んで字の如く旅順の中枢である旧市内を眼下に見下ろせる高台である。ここにおいて、旅順の心臓に第三軍の刃が届いた。
この望台の陥落から約一時間後の同日午後四時三十分に、乃木第三軍の前哨に、旅順要塞司令官ステッセル中将の軍使が訪れ降伏を申し出た。これによって、日本軍は背後の憂いを除去し、奉天会戦勝利の条件を獲得できた。
そこで言う。この旅順の心臓部である東の要塞を、血の雨を流して攻め続け、遂に陥落せしめた部隊は何処か。その殊勲の部隊の一つが松山第二十二聯隊なのだ。
そして、松山は、この郷里の殊勲の部隊を無視した「坂の上の雲の街」という幟を濫立させている。聯隊の郷里においても郷里の兵士の勇戦奮闘が忘れられているのかと思うと、彼らが無性に可哀想になった。
そして、護国神社での話しの冒頭に、私は、旅順を陥落させたのは、当地松山の第二十二聯隊です、と申し上げた。
なお、乃木第三軍は、旅順攻略戦に十三万人の将兵を投入し五万九千の死傷者を出した。旅順は、明治三十八年一月一日に陥落したが、第三軍は一月十四日に乃木希典軍司令官が「第三軍将士戦死病没者之霊位」と墨書した木柱を立てて招魂祭を行い奉天にむけて北上する。
その招魂祭の供花には、旅順陥落の切っ掛けとなった東鶏冠山と望台を攻めて多くの犠牲者を出した第二十二聯隊の戦没将兵に贈られた、郷里の愛媛県越智郡河北高等小学校五年生の造花が飾られていた。
第二十二聯隊の郷里松山は、今はこのことを忘れているのか? 命と引き替えに祖国を守った勇戦奮闘の殊勲が忘れられているのか?
この思いが、私に沖縄で愛媛県の戦没者の名を刻んだ碑に敬礼を促した。松山第二十二聯隊は、その後も激戦を戦い抜き、大東亜戦争において最大の本土における激戦である沖縄戦に投入された。
そして、昭和二十年四月、沖縄に上陸したアメリカ軍を嘉数の戦いで迎撃して多大な死傷者を出しながら敢闘し、その後も二十倍の敵と五十日間対峙して一歩も退かず、遂に六月二十四日、沖縄島南部において連隊旗を焼き全員戦死して聯隊としての命を終えた。
「坂の上の雲」は、松山を主人公の郷里としながら、松山第二十二聯隊の敢闘は無視している。作者の歴史観、乃木希典評と矛盾するからであろう。聯隊は、日露戦争で無視されるように沖縄戦でも勇戦奮闘は語られることはない。
しかし、愛媛の護国神社には聯隊の勇戦奮闘を伝える碑がある。勇士のことを、郷里は、そして、祖国は、忘れていない、と信じる。
杜父魚文庫
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