<国賓として来日中のブータンのジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王(31)とジェツン・ペマ王妃(21)は19日朝、京都市を訪れ、雨の中、世界遺産・金閣寺に参拝した。
国王夫妻は和傘をさして、鏡湖池(きょうこち)の眺めや周囲の紅葉を楽しみながら散策。金閣の中では宝冠釈迦如来坐(ざ)像の前で静かに合掌した。
ブータンは敬虔(けいけん)な仏教国。夫妻を案内した同寺の有馬頼底(らいてい)住職によると、国王は王妃とともに境内の「平和の鐘」をつき、「どこかでいつも争いが起きている。仏教の力で世界が平和にならないといけない」と話していたという。
国王夫妻は午後から同市の京都伝統工芸館を訪問、夜は京都迎賓館での歓迎夕食会に出席する。(読売)>
心が洗われるブータン国王夫妻の来日であった。敬虔な仏教徒が捧げる祈りの姿は、戦後日本人が久しく忘れていたものである。大河と草原から生まれた仏教は、砂漠で生まれたキリスト教やイスラム教と違った優しい面持ちがある。
国王夫妻の姿から自然と溢れる仏教の穏やかさと、苛酷なヒマラヤ街道に位置するブータンの地勢の厳しさの対比が、何か不思議であった。ブータンは世界で唯一チベット仏教(ドゥク・カギュ派)を国教とする国家である。
しかし、この国の歴史はチベットの度重なる侵攻、一八六四年のイギリス・ブータン戦争(ドゥアール戦争)と苦難の道を歩んでいる。イギリスに敗れたブータンはアッサム、ベンガル、ドゥアールの全領土を占領されている。
一九〇七年に現王朝のワンチュク家が支配圏を確立して、ブータン王国を建国。イギリスとの間でブナカ条約を締結してイギリスの保護領となった。一九七一年に国連加盟。
一九五七年にお忍びで京都を訪れていたブータン王妃に面会した中尾佐助大阪府立大学助教授(当時)が直談判して、翌年、日本人として初めてブータンに入国を許されたとされている。しかし実際には戦時中から戦後にかけてイギリス保護領のブータンに日本人が潜入していた。
西川一三さんが書いた「秘境 西域八年の潜行」という本がある。戦時中に敵地潜行を命じられ、西北支那、内蒙古、寧夏、甘粛、青海、チベット、ブータン、インド各地をめぐっている。ブータンについて「ブータン人の生態」という記述がある。戦後は日本人もブータンに入っているが、戦時中にブータンに潜入してかなり正確な報告をしていた珍しい記録。
チベット人はブータン人を「ルーパー」と呼んでいる。蒙古やチベット人のように弁髪をたくわえず、すべて丸坊主でがっちりとした体躯。「ブレー」という粗い絹のような織物で作ったチベット型の着物を着ている。その着物が非常に短いのに驚く。
このような寒そうな服装をしているのは、彼らの国が、チベットとヒマラヤの雪峰ひとつ隔てて接しているが、ヒマラヤの北側と南側では、すべての風物が私たちには想像もできないほど非常に差異があり、気候においても寒帯と亜熱帯の差異がある。
ブータンは温暖な風土に恵まれていたことに、西川さんは驚いている。「ブータンはヒマラヤの南麓に位置して気候に恵まれ、地味も肥え、米作も可能で、小麦など穀物の宝庫となっている」と率直にブータンの豊かさを記述した。
チベットからブータンに入るには、大自然の城壁となっているヒマラヤを越えねばならぬので、通路はほんのわずか。しかしブータン人がインド貨幣を使っているのを西川さんはみて、ブータンがチベットよりもインドに近づいていると分析していた。
事実、ブータンは一九四七年、インドのニューデリーで行われたアジア関係諸国会議(Asian Relations Coference)に参加、二年後にはインド・ブータン条約に調印して両国関係を強化している。来日したジェツン・ペマ王妃はインドの中学に学び、イギリスの大学を卒業している。
※二〇一一年もあと一ヶ月余りで終わる。ことしは私にとって、あまりよい年でなかった。春から夏にかけて親しかった友が次々と他界した。五月・茅野春雄氏(北大名誉教授)、七月・小角又次氏(画家)、八月・高橋洋介氏(元岩手県副知事)・・・何か取り残されたような気すらする。心からご冥福をお祈りする。
杜父魚文庫
8686 ブータン国王夫妻、雨の金閣寺を参拝 古沢襄

コメント
人生は、汽車で、旅行してるのと同じ、と僕はおもってます。亡くなった方々は、とうりすぎた駅です。僕の降りる駅はどこか、だれもおしえてくれないが、いつか、そこに到着することだけは、確か。