8768 70周年「真珠湾の真実」 平井修一

東京裁判で東條英機閣下は博学・大川周明から頭をぽかりと殴られたが、「東條よ、インチキ茶番の馬鹿げた法廷にまじめに付き合うな」というメッセージだったろう。
東條の宣誓供述書は占領下で洋洋社から刊行されたが、東條は恐ろしくクソ真面目かつ詳しく「大東亜戦争の真実」を語っており、嘘をニカワで搗き固めた「米国製自虐史観」で日本人を洗脳していこうというGHQ・マッカーサーにとってはまことに「不都合な真実」だから発禁第一号に指定され、永らくごく一部の人にしか知られていなかったという。小生は月刊WILL(05年9月号)で知った。
小生がずっと気になっていたのは東條の次の供述だ。
<次の事柄は私が戦後知りえた事柄であって、当時はこれを知りませんでした。
(一)米国政府は早く我が国外交通信の暗号の解読に成功し、日本政府の意図は常に承知しておったこと
(二)我が国の1941年(昭和16)11月20日の提案は日本としては最終提案なることを米国国務省では承知しておったこと・・・
(四)11月26日ハルノートを日本政府は最後通牒と見ていることが米国側に分かっておったこと
(五)米国は1941年11月末、すでに英国とともに対日戦争を決意しておったばかりでなく、日本より先に一撃を発せしむることの術策が行われたることであります。11月末のこの重大なる数日の間において、かくのごときことが存在しておろうとは夢想だに致しておりませんでした>
米国の罠、謀略、挑発にはまって日本は戦争へ引きづりこまれてしまった。情報力、インテリジェンスで後れを取った。日本は第2次大戦の最大の被害者だが、それは言っても詮無い。悔しくて悲しい「民族の悲劇」と思うしかない。
ただ子孫には言うべきことは言っておかないといけない。米国は日本の真珠湾攻撃の1年前、既に1940年から対日戦争をしっかり準備していたのだ。英文サイト「真実はこうだ! 米国政府が国民に学んで欲しくない歴史」は“マッカラム・メモ”を詳しく紹介している。
英文http://www.whatreallyhappened.com/McCollum/
翻訳http://totopapa.iza.ne.jp/blog/entry/30549/
大要はこうだ。
<1940年10月7日、米国海軍諜報部のアーサー・H・マッカラム少佐は、海軍のウォルター・アンダーソン提督とダドリー・ノックス海軍長官に、レポートを提出した。アンダーソンとノックスは、フランクリン・D・ルーズベルト大統領が最も信頼を寄せる軍事顧問である。
この“マッカラム・メモ”は、日本に米国への攻撃を挑発するための8段階のプランを詳述している。ルーズベルトは1941年においてメモに記載されている8つの推奨プランのすべてを実行した。8番目の挑発のあとに日本は米国を攻撃したのだ。
米国民は政府から「日本の攻撃は驚天動地、諜報の失策」と聞かされていたが、実は米国政府により準備されたものだった。そして米国は第二次世界大戦へ参戦した。
このメモは1994年に機密扱いを解除され、米国政府が日本の攻撃を引き出したかったことを証明している。真珠湾の真実が明らかにされるまで50年もかかった>
日米戦を含めた大東亜戦争で「日本悪玉論」を唱えているのは国内ではGHQに洗脳された自虐史観・容共左派の反日屋くらいで、まともなオツムの人でそんな風に考えている人は世界中でもレア、敵性国家の中朝露韓以外にまずいないだろう。
以下は「マッカラム・メモ」の核心部分だ。日本を挑発しようというもので、今でも米国は己の国益のために何をするか分からないからご用心である。
<我々の精力的な行動により、日本人をして彼らの態度を変えさせていくことは可能だろう。ゆえに以下の行動をとっていくことを提言する。
A)英国と、太平洋における英国基地、とりわけシンガポールの使用について協議せよ。
B)オランダと、蘭領インドの基地施設使用、物資獲得について協議せよ。
C)蒋介石の支那政府にすべての可能な支援を与えよ。
D)ひとつの長距離重艦隊を東洋、フィリピンあるいはシンガポールへ派遣せよ。
E)二つの潜水艦隊を東洋へ派遣せよ。
F)主力艦隊を太平洋ハワイ諸島に維持せよ。
G)オランダに、日本の不当な経済要求、とりわけ原油要求には拒否するよう主張すべし。
H)米国は英国との連携のもと、対日貿易を完全にやめる。
これらの手段により日本を戦争へ導くことができ、その攻撃が重大であればあるほどよい>
BBCドキュメンタリーの内容を伝えるサイトは真珠湾攻撃の当日の模様をこう伝えている。
英文http://www.whatreallyhappened.com/pearl/www.geocities.com/Pentagon/6315/pearl.html
翻訳http://totopapa.iza.ne.jp/blog/entry/91739/
<12月7日――午前7時55分(ハワイ時間)、日本が真珠湾急襲。ハワイの米軍は「これは訓練ではない」と急報。
12月7日――午後1時50分(ワシントン時間)。ルーズベルトがノックス海軍長官から電話で攻撃のニュースを受けたとき、ルーズベルトとともにいたただ一人の人物であるハリー・ホプキンス(最高クラスのKGB職員かつルーズベルトの分身)は、ルーズベルトがその報に驚くことなく「大きな安堵」を表したと書いている。
エリノア・ルーズベルト夫人は12月7日について「This I Remember」(「思い出すこと」)で、ルーズベルトが「より穏やかな感じになった」と書いた。1944年10月8日のニューヨークタイムズマガジンに彼女はこう書いている。
「12月7日は、大方の国民が受けたようなショックからほど遠く、私たちは長い間、何かそのようなものを予想していました」
12月7日――午後3時00分、「戦時内閣の会議はあまり緊張した空気で開かれなかった。我々全員が結局、敵はヒトラーであると思っていたし、日本は我々にその機会を与えたと思っていたからだ」とハリー・ホプキンスは12月7日メモに記した(R.シャーウッド著「ルーズベルトとホプキンス」)。
12月7日――攻撃の9時間後にマッカーサーの全空軍は驚きに捕えられ、フィリピンから一掃された。しかし真珠湾のニュースに対する彼の反応は全くもって異様だった。
彼は午前中ずっと部屋にこもり、空軍指揮官ブリアートン将軍に会うことを拒否し、陸軍省からの台湾の日本軍攻撃命令さえも拒否した。
マッカーサーはその朝、大部分の飛行機が地上にあることを確実とさせる3つの矛盾する命令を与えた。彼は日本の飛行隊をレーダー追跡し、140、100、80、60、そして20マイルと接近するのを確認しながら、彼の飛行機群が確実に地上にあるよう命令を下していった。
戦略的には、世界の全ての米国の重爆撃機の半分の破壊は、真珠湾における海軍の損害より深刻だった。マッカーサーは戦史に残る最も大きな失敗を犯したか、あるいはマッカーサーは彼の軍隊が「破壊されるに任せよ」という命令の下にあったかだろう。
それが歴史で最も大きな大失敗であるならば、彼がいかなる非難からも免れ、司令権を保ち、ほどなく4つめの星と名誉勲章を得たことは説明がつかず、注目に値することだ。
プランギーはこう主張している。「大統領は日本の攻撃を確実にするため、指揮官に打ち明けて、敵が妨害なく進むのを許すよう彼らを説得した。そうしなければどうして成功しようか?」>
真珠湾攻撃による犠牲者は、アメリカ側は死者2403人、負傷1178人。5隻の戦艦を含めて18隻が沈没または撃破。航空機は188機が撃破、162機が損壊。
日本側は31隻の艦隊、353機の艦載機を動員し、死者64人、撃墜29機、小型潜航艇5隻沈没。
アメリカ側の損害は「生贄」(いけにえ)である。死ななくてもいい人をルーズベルトは殺した。普通の感覚をもつ人は、いくら欧州で対ドイツ戦に参戦したいからといっても2400人もの自国民を犠牲にするようなことはしない。
政治目的のためには手段を選ばず、平然と嘘をつき、平気で国民を殺すのは共産主義者の常套手段だが、ルーズベルトはほとんどコミンテルンの手先だったようである。
当時、日本の国力はアメリカの10分の1しかなかった。非力を精神力で補い、日本は必死に戦った。戦い抜いてついに負けたが、戦わずしてハル・ノートを受け入れ尻尾を巻いていたら日本民族の尊厳は地に落ち、今の日本もアジアもなかっただろう。
杜父魚文庫

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