8783 九ヶ月後の津波の現場 西村眞悟

十日は、午前、仙台に行き、夜、大阪に帰った。飛行機は、海から進路を西にとって、仙台空港に着陸した。海の上の空から、飛行機が侵入していく仙台空港を見ていると、海岸から直ぐに滑走路が西方向に敷かれている。
やはり、これほど海岸近くにあれば、あの津波で空港が水没するのは当然のことだったのだと思う。震災後、仙台空港に降りるのは初めてである。
滑走路と二階まで漬かった空港ビルは、津波の傷跡らしきものは見あたらない。しかし、空港ビルの外に降りて駐車場に向かうところから様相は一変する。
空港ビルの二階を支える柱の側を通れば、柱には津波の傷跡が残っている。そして、駐車場に出て車を走らせれば、津波が根こそぎ薙ぎ倒していった原野のなかに空港ビルがあり滑走路があったのが判る。
仙台空港は、三月十一日の発災直後の空港ビルからの映像で明らかなように、普段は飛行機が飛び上がる滑走路が、大きな河床のようになって、そこを多くの自動車やセスナ機がごちゃごちゃとひしめき合って流されていた。
しかしこの滑走路を補給拠点として機能させなければ、速やかな救助、救援活動はできない。
 
その為、アメリカ空軍と海兵隊の特殊部隊が投入された。アメリカ軍は、戦闘中に破壊された空港施設を直ちに復旧して味方の航空機の発着を可能とする特殊部隊をもっている
(それを知ったとき、とっさに頭に浮かんだのが、ガダルカナルでは、彼らの先輩に我が滑走路を奪われた、ということ)。
そこで、仙台空港に、沖縄の嘉手納基地に常駐している第320特殊戦術飛行隊が直ちに送り込まれ、滑走路の瓦礫を撤去し、緊急管制システムを用意して、発災後五日目の三月十六日に、固定翌機である特殊作戦機MC130HコンバットタロンⅡが滑走路に着陸し、直ちに積載していた資材、救援物資を降ろした。以後、仙台空港は、救助、救援物資の補給基地として機能した。
空港を出て、薙ぎ倒された荒野のなかの道路を通って名取市の破壊されたままの港に出た。天皇皇后両陛下が訪れ、海に向かって合掌された港である。
 
その港の北に西から東に流れる名取川があり、橋を渡っているとき、東の松林の海岸の方を見て分かった。
テレビで最初に見た津波の映像は、この名取川河口だったのだ。ヘリからの映像は、名取川の岸を遡る津波を撮していた。これは水が逆流している様子だったが、岸をこえるような高さではなかった。するとアナウンサーの驚く声とともに、カメラが北東の海岸を撮した。するとそこに、真っ黒い身の毛がよだつような津波の壁が民家を飲み込みながら移動していた。そして、道路を走る車を次々と飲み込んでいったのだ。
私は、暫く北上し、西に進んだ。すると五メートルほどの堤上を高速道路が南北に走っていた。その高速道路をくぐって西に出ると付近の様子は一変した。何の被害の跡もない。津波は、高速道路の堤で止められたのだ。
以上、昨日十日、民社党以来の同志である鉄労仙台友愛会の仲間に仙台空港から案内していただいて観た、発災九ヶ月後の被災地の状況である。
神戸を中心とする市街地で起こった阪神淡路大震災の被災地の様子と全く異なる。人々が未だに、全く戻ってきていない。元の場所に戻ってきて生活できる目処が全く立たないのだ。
かつて、民家、水産加工場が立ち並んでいた被災地の荒野には、未だ信号も点灯していない。つまり電気がない、もちろんガスも水道もないのであろう。
大都市の被害ではないので、あまり報道もされず、九ヶ月後には既に忘れ去られたようになっている被災地を観て何を感じたか。
 
政治が、民主党内閣が、未だに、復興のグランドデザインさえ立てていないということである。このことは、仙台空港と名取市周辺に限らず、福島原子力発電所周辺に関してもいえる。
そこをどうするのか、明確なビジョンも示されていない。七月に猪苗代湖のホテルで会った原発周辺の双葉町から避難した九百名の人たちはどうしているのだろうか。
今は、ホテルから出て仮設住宅に移られたとは聞いているのだが。今も放射能に関しては、風評だけが流れている。
政府は原子炉の技術者ではなく、率先して、世界から放射能治療の権威ある専門医師を福島に集めて、人体にとって有益な放射能線量と危険になる放射能線量の目安を審査する学術会議を開催するべきである。
放射能に関しては、未だに、何時決めたのか、誰が決めたのか、科学的根拠があるのかさえ、全く判らない。政府の「暫定基準値」だけが、さも権威あるもののように一人歩きして、風評だけが先行しているではないか。
被災地の人々を日々苦しめる、この政治の無策!昨日午後五時の仙台の路上の温度は、摂氏一度だった。これから、寒い東北の冬がやってくる。被災地の皆様の、ご健康を切に祈り申し上げる。
杜父魚文庫

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