8791 「ニクソンの奇跡」の再来をやらかすのだろうか? 宮崎正弘

ニュート・ギングリッチ、圏外に去ったと思いきや共和党候補第一位に浮上。まことに政治の世界は一寸先が闇である。共和党の次期大統領候補レースは、ピザ・チェーンの経営者ケインが蜃気楼のように現れ、陽炎のように消えた。
ハッツマンとペリーもほぼ消えかけ、党内穏健派ロムニー(元マサチューセッツ州知事)が党内をまとめそうな勢いにあった。
共和党候補がどんぐりに背比べといわれた春から夏にかけて、真っ先に選挙参謀らがごっそり逃げ出して、秋にギングリッチの選挙事務所は空となった。事実上、ギングリッチの戦線離脱は時間の問題と考えられた。
まさかよもや、再起不能と見られたのに、党内政治状況の混乱と混沌にたくまくし便乗して、十一月にはいるや、本命ロムニーをしのぐ勢い、いくつかの州でギングリッチの人気はロムニーを遙かに圧倒している。世論調査でもギンギリッチ vs オバマとなると、オバマがやや不利とでている。
ニュート・ギングリッチは元下院議長で、彼の主導で連邦下院議会は42年ぶりに共和党優位という政治状況を作り出した功績はいまも語り草である。
ビル・クリントン大統領時代、議会をかき回して保守主義の旗をたかくかかげ「米国との契約」という政治マニフェストは、当時の最大のイシュウとなった。
当時、ギンギリッチ人気は沸騰し、2008年には一度、大統領選挙出馬に動いた。途中でレースを下りたが、彼の書く著作はベストセラーとなった。
そもそもギングリッチは歴史学博士、大學教授から政界に転じた変わり者である。そのうえ女性スキャンダルが左翼マスコミにたたかれ、人格を評価しないコメントで米国リベラル・ジャーナリズムが或る特定のマイナス・イメージを醸成した。
だが彼はタフな精神の持ち主らしく、まるでくじけなかった。
不死鳥のように蘇生したのだ。このところのテレビ討論会でギンギリッチは能弁雄弁多弁の士であることを証明しつつ、本命候補のロムニーをしばしば言い負かす場面が見られる。
▲ニクソンの奇跡のカムバック
リチャード・ニクソンの奇跡のカムバックを筆者は思い出した。
ニクソンはカリフォルニア州の農家の生まれ、苦学してデユーク大学院を卒業し、弁護士、いくつかの歴史学的著作を書いた。
『六つの危機』という当時の国際政治学の著作が注目され、下院から上院議員への飛躍的活躍が目にとまってアイゼンハワー大統領がニクソンを副大統領に指名した。わずか39歳だった。
 
そして1960年、大統領候補となるも、テレビ討論会で悪相イメージを作られて、ニクソンはJFKに惜敗した。
JFKに愛人を紹介したフランク・シナトラがシカゴのマフィアに顔を利かせ、接戦区のイリノイで大量の不正投票があり、本当はニクソンが勝っていたが、米国を混乱させてはいけないと、あっさり敗北を認めた。
次にニクソンはカリフォルニア州知事に転身しようとしたが、果たせず落選した。その落剥をNYの安アパートに過ごした。
このとき、ニクソンを訪ねた加瀬俊一(初代国連大使)は、ニクソン自らが台所にたって「目玉焼きか、スクランブルか」と聞いたことを何かに書いていた。
JFK暗殺、ジョンソン政権のもと、泥沼化した米国の政治状況の激変によって、ニクソンは混乱する共和党の候補者選びをみていて、さっと新状況を作り出した。
誰もが本命視しなかったニクソンは予備選をあれよあれよとリードし、さらに選挙本番で、民主党候補のハンフリーに競り勝った。
ニクソンは反共の闘士でありながら外交では中国と電撃的関係改善をなしとげ、ソ連を封じ込めて冷戦時代の終わりを形成する政治戦略を編み出した。
圧倒的多数でリベラルなマクガバンを破り、悠々と再選を果たした。
ウォーターゲート事件という伏兵によって政権を中途でフォード副大統領に譲らざるを得なかったが、爾後、ニクソンは著作に専念した。
復帰第一作の『リアルウォー』は、世界的ベストセラーとなり、そうそう、筆者は復帰三作目の『リアルピース』の翻訳者でもある。
1984年にNYのニクソンのオフィスを訪ねて、独占インタビューを行ったことを思い出した。
奇跡のカムバックを果たした元大統領にはたしかにカリスマ性があった。ニュート・ギングリッチは、ニクソンの再来に挑んだ。
杜父魚文庫

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