安政元年(1854年)に西郷隆盛が江戸の藤田東湖邸を訪れたことがあります。樺山資之(のちの台湾総督)が一緒だったという説もありますが、もとより水戸と薩摩は当時は緊密な勤王佐幕派であり、攘夷に熱狂している。二年前に急死した樺山卓司都議は、この樺山の嫡孫でした。
桜田門外の変は水戸藩浪士の正気の行動だったが、薩摩藩士も加わっています。いま、ここで桜田門外の変を語ることはしませんが・・・。
藤田東湖のもとに薩摩藩からは海江田信義も足繁く出入りして国学を学びました。海江田は西郷、大久保ともに親しく、維新後は奈良県知事などを歴任し、勲一等。この子孫が民主党衆議院議員で総裁選にも立候補した海江田万里です。
藤田は水戸藩家老で幕末にいち早く海防の重要性を説いた「新論」の会澤正志斎と親しく、また水戸学の戸田忠太夫、武田耕雲斎と並んで「水戸の三田」と言われました。
西郷隆盛は藤田に逢った感動を次のように記しております。
「彼の宅へ差し越し申し候と清水に浴し候塩梅にて心中一点の雲霞なく唯情浄なる心に相成り帰路を忘れ候次第に御座候」(あたかも清水を浴びたように、一点の曇りもなき清らかな心になれたので帰り道を忘れる次第だった)
藤田東湖の通称は虎之助、東湖は号。出生地の水戸市梅香は、当時、仙波湖に臨む名勝の地にありました。水戸斉昭に仕え、斉昭の失脚とともに藤田も政治的に失脚し、やがて復活するまで失意の十年を送ったのですが、その烈々なる愛国心は水戸藩士のみならず全国の志士の血を沸かせました。土佐の山内容堂も、藤田の講義を聴いたというほど当時の有名人でもあったのです。
回天詩史と正気歌は、東湖の尊皇愛国の信念気魄を吐露したものとされた。多くの弟子を抱え江戸に暮らしたが安政の地震により不幸な死を遂げました。
これらの試作は藩主が冤罪のため、致仕して謹慎の身となり、東湖も小石川藩邸内に蟄居を命ぜられたため、裂帛の詩を残しています。
藤田が残して逝った「正気歌」は次のようです。
天地正大気、粋然鍾神州。秀為不二嶽、巍々聳千秋
注為大瀛水、洋々環八洲。発為万朶桜、衆芳難与儔
凝為百錬鉄、鋭利可断●。●臣皆熊羆、武夫尽好(●は「霧」の下側+「金」。●はクサカンムリ+「盡」。
神州執君臨、万古仰天皇。皇風洽六合、明徳●太陽(●はニンベン+「牟」)
不世無汚隆、正気時放光。乃参大連議、侃々排瞿曇
乃助明主断、焔々焚伽藍。中郎嘗用之、宗社磐石安
清丸嘗用之、妖僧肝胆寒。忽揮龍口剣、虜使頭足分
忽起西海颶、怒涛殱胡氛。志賀月明夜、陽為鳳輦巡
芳野戦酣日、又代帝子屯。或投鎌倉窟、憂憤正●々(●はリッシンベン+「員」
或伴桜井駅、遺訓何慇懃。或●天目山、幽囚不忘君(●はケモノヘン+「旬」)
或守伏見城、一身当万軍。承平二百歳、斯気常獲伸
然方其欝屈、生四十七人。乃知人雖亡、英霊未嘗泯
長在天地間、隠然叙彜倫。孰能扶持之、卓立東海浜
忠誠尊皇室、孝敬事天神。修文与奮武、誓欲清胡塵
一朝天歩艱、邦君身先淪。頑鈍不知機、罪戻及孤臣
孤臣困葛●、君冤向誰陳。孤子遠墳墓、何以謝先親(●はクサカンムリ+「儡」の右側)
荏苒二周星、唯有斯気随。嗟予雖万死、豈忍与汝離
屈伸付天地、生死復奚疑。生当雪君冤、復見張綱維
死為忠義鬼、極天護皇基
「東亜教育会」による詩の解説、読み方は下記のとおりです。
天地正大の気、粋然神州に鍾る。秀でては不二の嶽となり、巍々千秋に聳ゆ。
注いでは大瀛の水となり、洋々八洲を環る。発いては万朶の桜となり、衆芳与に儔し難し。
凝つては百錬の鉄となり、鋭利●を断つべし。●臣皆熊羆、武夫尽く好仇。
神州孰か君臨す、万古 天皇を仰ぐ。皇風六合に洽く、明徳太陽に●し。
世汚隆無くんばあらず、正気時に光を放つ。乃ち参す大連の議、侃々瞿曇を排す
乃ち助く明主の断、焔々伽藍を焚く。中郎嘗て之を用ひ、宗社磐石安し
清丸嘗て之を用ひ、妖僧肝胆寒し。忽ち揮ふ龍口の剣、虜使頭足分る
忽ち超す西海の颶、怒涛胡氛を殱す。志賀月明の夜、陽に鳳輦の巡を為す
芳野戦酣なるの日、又代る帝子の屯。或は投ぜらる鎌倉窟、憂憤正に●々
或は伴ふ桜井の駅、遺訓何ぞ慇懃なる。或は●ふ天目山、幽囚君を忘れず
或は守る伏見の城、一身万軍に当る。承平二百歳、斯の気常に伸ぶるを獲たり
然れども其の欝屈するに方つては、四十七人を生ず。乃ち知る人亡ぶと雖も、英霊未だ嘗て泯びず
長く天地の間に在り、隠然彜倫を叙つ。孰か能く之を扶持するや、卓立す東海の浜
忠誠皇室を尊び、孝敬天神に事ふ。修文と奮武と、誓つて胡塵を清めんと欲す
一朝天歩艱み、邦身先づ淪む。頑鈍機を知らず、罪戻孤臣に及ぶ
孤臣葛●に困しむ、君冤誰に向つてか陳べん。孤子墳墓に遠ざかる、何を以てか先親に謝せん。
荏苒二周星、唯斯の気の随ふあり。嗟、予万死すと雖も、豈汝と離るるに忍びんや
屈伸天地に付す、生死復奚ぞ疑はん。生きては常に君冤を雪ぐべく、復見ん綱維を張るを
死しては忠義の鬼と為り、極天皇基を護らん
この詩作は向島小梅村に幽閉中、想いのたけを託したもので、東湖四十歳の作だとされる。明らかにこの歌は文天祥の正気歌に擬したものだが、発想は尊皇愛国の思想が中枢にある。東湖の父、幽谷が文天祥の正気歌を愛誦したため、頭のなかに入っていたのだろう。
つまり藤田東湖における正気とは「この宇宙には『正大の気』が充満しており、かつ常に流動している。この正気は、宇宙万物の生成、発展、連行を根元にあるエネルギーだ。正明かつ剛大、これを『至誠の気』といつてもよい。「正気は世界中の何れの国にも普く広く流れて居るが、純粋無雑な結晶を示すのは神州日本のみである」と。(東亜教育会の解題)。
また藤田東胡の「回転の詩」は次の通りです。回天詩 藤田東湖
三決死矣而不死。二十五回渡刀水。
五乞閑地不得閑。三十九年七処徙。
邦家隆替非偶然。人生得失豈徒爾。
自驚塵垢盈皮膚。猶余忠義填骨髄。
嫖姚定遠不可期。丘明馬遷空自企。
苟明大義正人心。皇道奚患不興起。
斯心奮発誓神明。古人云斃而後已。
(三たび死を決して而して死せず。二十五回刀永を渡る
五たび閑地を乞うて閑を得ず。三十九年七処に徙る
邦家の隆替偶然に非ず。人生の得失豈徒爾ならんや
自ら驚く塵垢の皮膚に盈つるを。猶余す忠義骨髄を填む
嫖姚遠期す可からず。丘明馬遷空しく自ら企つ
苟しくも大義を明らかにし人心を正さば。皇道奚ぞ興起せざるを患へん
斯の心奮発神明に誓ふ。古人云ふ斃れて後已むと
「東亜教育会」による詩の解説を以下に掲げます。
「自分は今禁錮の身となつて徐かに過去の生涯を回想して見るのに、これまで邦家の難局に処して死を決したことが三度もあるが、遂に死を得ずして今日に至つて居る。また夙くから国事に奔走し、屡々江戸・水戸の間を往来して、二十五回も刀根川を渡つた。公職を辞して閑地に就かうとしたことも五度もあつたが、それも叶はなかつた。過去三十九年間に、公事の為に家居を移すこと七度にも及んで居る。而して今測らずも藩公は禍に遭ひ、自分も亦茲に幽囚の身となつてしまつた。個人一身上ですら斯の様な変化である。我が水戸藩政の盛衰消長今日に至る誠に偶然ではない。人生得意となり失意となるのも決してただ事ではない。思へば益々感慨深きものがある。
自分は幽居既に数月に及び、身の不潔云ふばかりなく、皮膚を掻けば塵垢爪に盈ち、自分ながら驚くほどだが、烈々たる一片の忠義心はなほ内に潜み骨髄を填めて居る。自分のやうな不敏の者は、彼の漢武帝の臣霍嫖姚が匈奴を征すること六度、内蒙古の地をして漢に帰せしめた如き、又漢明帝の臣班定遠が西域に使して留ること二十年、域内を悉く漢に服せしめた如き大事業は到底為し得ないが、魯の史官左丘明が左氏伝を撰作し、或は漢武帝時代の学者司馬遷が史記を完成した例に倣ひ、専ら修史述刪に努め、以て大義名分を正さうといふ気魄だけは持つて居る。君臣の大義を明らかにし人心を正すといふことは、実に皇道振作の唯一の道である。自分は資質駑鈍ではあるが天地神明に誓ひ、畢生の心を竭くし、終身の力を極め、事に斯に従ひ、古人の云つた如く、斃れて後已むの決心を以て、此の志を達成しようと堅く期して居る」。
藤田東湖、いまこの幕末の傑人を語る人は稀である。「奇兵隊内閣」などと獅子吼した、かの政治家はおそらく藤田の名前さえ知らないだろう。(続く)
杜父魚文庫
8881 連載 第三回「正気をうしなった日本」 宮崎正弘

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