今やご存知のように秋田料理「きりたんぽ」は殆ど「全国区」になったが、味は全く落ちてしまった。地元秋田では、空港や主要駅で「土産」として通年販売する都合上、潰した飯の中に「防腐剤」を入れ始めたので、「コメの秋田」の美味しさは全く無くなった。
同じ秋田県でも、山形や宮城県に隣接する県南では、きりたんぽは食べない。あれは県北のもの。昔は南部藩だった鹿角郡が発祥の地。
あの辺に暮らした熊の狩猟師「またぎ」が作り出したもの、といわれている。だが、私は秋田県人の癖に、県北に住むようになるまで全く知らなかった。
昭和33(1958)年6月、NHK秋田放送局大館市駐在通信員になって、大館市内に下宿し、いろいろな取材を始めた。
大館警察署の取材は早朝4時に起きて行く。勿論、他社は誰も来ていない。管内の火事、交通事故の一報が沢山入っている。そのなかから適当なものを、それなりの文章にして、秋田放送局へ電話で送稿。
受けるのは、当直のアナウンサー。大体新人だ。だが、ローカル放送は午前6時。その前の5時は仙台から東北地方全域向けの放送。そこでアナウンサー殿に頼んで仙台に吹き込んでもらう。
仙台の報道課には記者が泊まっている。デスクが昨夜仕組んでいったニュースはすべて昨日のもの。大館発の交通事故や火事は唯一の「ニュース」だ。かくてNHK仙台発の午前5時の「管内ニュース」は、毎朝「大館発」だらけ。面白かった。
そのうちに忘年会のシーズンになった。各社の記者は老人ばかり。出世は止まっているから、官庁や商工会議所にたかって酒を呑むことばかり考えている。
こちらは「明日」に望みを賭けている身だから、「たかり」は避けたい。だが、まだ民放記者の駐在の無い時代。宴席からNHKが欠けると目立つとかで、「そこは付き合い」と引っ張られる。
問題は「料亭」だ。1軒しかない。「芸者」もそこにしか出入りするところが無い。スポンサーは変われど、料亭も芸者も毎晩同じ顔ぶれ。しかも料理は決って「きりたんぽ」。
毎日、毎晩「きりたんぽ」だから、終いには「きりたんぽ怖い」になってしまった。あれから50年以上過ぎたが「きりたんぽ怖い」は治らない。
杜父魚文庫
8902 「きりたんぽ」怖い 渡部亮次郎

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