8935 台湾総統選挙取材日記 宮崎正弘

(某月某日)羽田発ANAは松山空港着。市内まですぐの距離だから至極便利なので羽田―台北便の開設以来、成田―桃園便は使わなくなった。
最初に台湾を訪問したのが1972年、日華断交直後で藤島泰輔氏があちこちに紹介状を書いてくれた。「こんなときによくきてくれた」と随所で歓迎された。台湾ペンクラブの会長とか中央日報主筆とかに会えた。
それから暫くは羽田―松山だったが、成田開港にともない台湾も台北から一時間近くかかる桃園に新空港をつくった。ただし中華航空だけが「国内線」と見なされたため、かなり長期間、羽田出発、桃園着だった。その頃の羽田の国際線は空港内でバスを乗り換え、かなり辺鄙な場所にターミナルがあり、深夜に着いたりするとタクシーがくるのに30分待ちということもよくあった。
ANA便の台北到着は午後三時半すぎ、ジェット気流がすごくて四時間もかかった。富士山が綺麗にみえたあたりでぐっすりと眠り込んだ。前夜までの疲れを機内の睡眠で補う。とはいえ昼飯はきれいに平らげ、ビール二缶。
台北空港で両替。前回、遣い残していた台湾ドルだけでは心細いので、トラベラーズ・チェックを四百ドルほど交換。ためしに人民元レートを聞くと、なるほど強いことが分かる。蒋介石時代は大陸産の花瓶さえ持ち込めなかったから時代は変わったものである。蒋経国時代には反体制派の雑誌も持ち込み自由になっていたが・・・。
さて定宿が満員だったので駅裏のビジネスホテルまでタクシー。そういえば前回の総統選挙でもホテルはどこも満員で、駅裏のすこし先の新設ホテルへ泊まったことを思い出した。YMCAも取れなかった。すぐに隣のコンビニへ行って新聞を全紙もとめ、身支度。時計を見ると早や午後五時を回っている。土産品の整理する暇もなくタクシーを拾って集会の場所へ急いだ。
今晩は黄文雄氏が主宰のおおがかりなパーティがあり、台湾の文化人、コラムニスト、学者、芸人等百名近くが集まるのだ。日本人で招待されたのはほかに斯界の長老、伊原吉之助先生、作家の門田隆将氏、福島香織さんは北京取材からそのまま深夜便をのりついで台北に着いたばかり。ここに台北在住十四年というベテランの旅行作家・片倉佳史夫妻。奥さんも著述をこなされ、カラー写真がたくさん挿入された台湾名勝名品紹介の新刊をいただく。中国語である。
会は台湾語のスピーチで始まり、顔見知りのコラムニスト等も演説しているが、なにせ台湾語だからちんぷんかんぷん。片倉さんに一部を通訳して貰う。
つまりこの宴のスピーチを台湾語で一貫する意味は、参加者の多くが台湾独立志向の知識人であるという二重の意味が含まれる。いつぞや、そうそう二十年近く前に、黄さんに誘われて台湾大学で講演したことがあるが、黄さんは最後まで意図的に台湾語で喋った。聴衆の若者の半分が台湾人であるにもかかわらず台湾語が完全にわからなかった。小生は日本語で講演し、通訳は北京語、質疑応答は面倒なので英語で行ったことなどの記憶が蘇った。
途中で産経新聞の河崎真澄さんが上海から応援にかけつけ、吉村支局長もちょっと遅れて、ただし締め切りがあって、酒もめされずに両人は退席。そこへ今度はウーアルカイシ氏が入ってきた。「吾爾開希」という漢字を充てるが、ウィグル人で、あの天安門事件の時の学生指導者である。小生は過去に二回逢っているが、以前より肥満となっていたのが気になる。福島さんを彼に紹介した。
離れた席に日本人があと三人、招かれていたので挨拶し席へ戻って紹興酒を飲む。選挙の裏話が方々から入ってきて有益だったが、肝心のメモを取らなかったので記憶をたどるしかない。ただし、今度の取材は週刊誌との契約がないので、取材方法を変更し、月刊誌向きには裏話を基軸に論を進めようと思った。
宴がはねると午後十一時近く、小雨交じりの天気となったのでタクシーを拾ってホテルへ戻り、風呂を浴びてからすぐに就寝とあいなった。
(某月某日)早朝、近くの喫茶店で食事のあと、コンビニで新聞を全部。英字新聞も台湾にはふたつあり、これも買う。ざっと読んでいるとインクで手が黒くなる。日本の新聞のインクより三倍は手が汚れるのは、紙質とインクのそれかも? テレビニュースはつけっぱなし。それからあちこちに電話。
午前九時、役所開始と同時に記者登録のため行政院新聞局へ。それから三つの選挙事務所をまわり、おや宋楚諭のオフィスは狭い。金がないことが一目瞭然、また民進党の蔡英文の選対本部は板橋におかれているので、台北のオフィスはあまり人がいないのも気になる。途中、丘永漢の書店に立ち寄ったが、書籍スペースは以前の五分の一ていどになって、語学学校のロビィに早変わりしていた。これも日本書籍がまったく売れなくなった最近の風潮を物語る。
午後、二二八記念館をまわる。理由は国民党が政権奪回してから展示の内容が変わったという噂を聞いたからで、反日展示にすり替えたのか、或いは台湾人の激情を宥和させるために何かの仕掛けをしたのか。ざっと見て分かったのは展示のパネルのなかに、馬英九が台北市長時代から、いかにこの記念館設営のために政治努力を重ねたかという印象をイメージする写真展示と説明が最後のコーナーにあったことだった。
夕食の宴。この日は朱文清氏とジンギスカン鍋を囲む。場所は青島東路。台湾の国会議員会館にも近い。朱さんは東京滞在十余年のベテラン外交官。半年前に東京で関係者相集い、送別会をやって以来の対面だが、行政院新聞局のべつの所長に出世されていた。同席は大陸問題研究所の高野邦彦先生、前夜にひきつづき伊原先生にくわえ沢英武(元産経ボン特派員)、共同OBのK氏ら。表の話、裏の話を聞いているうちに、投票前日の総決起集会の時間が迫る。前者三人は隣の板橋へ。駅前スタジアムに民進党支援者十万人が結集する。李登輝元総統が蔡英文応援のためにかけつけるという。それにしても三人のベテランは80歳代である。元気だなぁ。
小生は国民党集会をのぞいてから林森北路のスナックへ。ここは最近日本のブンヤさんのたまり場になったらしいが、三十数年来の台湾の友人S氏のゴルフ仲間がママをつとめる店で、大勢のジャーナリストをつれてきたことが何度もある。明朗会計ゆえウィスキーのボトルも置いているが、一年以上いかなくてもちゃんと取り置きしてくれている。高山正之氏が「宮崎いきつけのバア」と書いたので、文庫本ではスナックに訂正してほしいと要請してきたが、文庫本にも、まだ「バア」表記のままである。そのうち、ババアと代える懼れもある。
さて情報通の台湾人から裏話を仕入れつつ「トトカルチョ相場」を訊く。1 vs 0・7で、蔡英文のほうが掛け金が高い。つまり蔡英文が不利というのが博徒たちの予測である。毎回、このトトカルチョ相場が選挙結果を正確に予測するという怖さがある。
(某月某日)投票日。朝から前日と同じ作業、新聞全紙を切り抜き、テレビニュースをつけっぱなしのまま、朝食はコンビニで買ってきたおにぎり、お茶で掻き込む。電話数カ所。インタビューも電話ですませる人がある。
昼の約束のあるシェラトンホテルへ。同ホテルは高級なのに昼のバイキングが超満員。いやはや台湾経済は意外と繁栄しているようだ。
ロビィで偶然、取材にきているNHKの林純一さんと。「これから張超英さんの奥さんと会食ですが、なんなら一緒に行きますか?」「それは是非」。超英さんは東京で新聞広報部長十年余。NYに引き上げてからも、よくNYであった。四年前に急逝、その遺稿集の日本語版は小生が斡旋し、チャイナウォッチャーの仲間数人が手分けして翻訳し、あまつさえ東京で未亡人と息子を呼んでの出版記念会も開催したという関係。
ところでロビィで三十分が経過した。「ん? 場所まちがえたかナ」。林さんの部屋から未亡人の携帯へ電話。待ち合わせ場所は国賓ホテルに変更されていた。慌ててタクシーで。
国賓ホテルの十二階は四川料理で有名である。ただし料金もそれなりに。この日の同席者は共同通信のSさん夫妻。フォーブス誌上海支局長(アメリカ人)、台湾人ジャーナリストに小生、林さん、Wさん。そしてホストは張超英夫人と司馬文武氏。司馬さんは、知る人ぞ知る台湾を代表するコラムニスト。陳水扁政権初期には国家安全担当補佐官を務め、「台湾のキッシンジャー」とも言われた。結局、この会は英語、中国語、日本語のチャンポン国際会議(?)となる。
すこし酒もはいって、酔い覚ましのため市内のあちこちを散歩がてら面白い光景を写真におさめた。自転車に蔡英文支援の旗竿を林立させ、着込んだジャケットも民進党という熱狂的民進党支援者の老人。かたや馬のマーク、ジャケットに馬の似顔絵、手袋から旗まで馬英九の顔とデザインで満艦飾のおばはん。重慶南路の書店で捜し物の書籍をさがしたが、三軒まわっても見つからず時間切れ。
大きな発見は大陸のベストセラーと台湾のそれが違うこと。文化価値の探求という意味では台湾の翻訳文かははるかに質が高い。中国大陸でベストセラー作家の渡辺淳一も東野圭吾も台湾では相手にされていないことも面白い現象と思った。
五時過ぎに台湾独立健康連盟オフィスへ。ここで開票速報を見ながら感想を羅福全前大使や許世偕大使からもらおうと思っていたのだが、はやばやと民進党の敗色が濃く、通夜のような静けさ。
オフィスには大きな黄昭堂(前主席)の遺影がかかっていて、その笑顔が印象的だった。日本李登輝友の会の訪台団の面々が三十人ほど。東京からは『台湾独立運動私記』を書いた宗像隆幸夫妻も来ていた。
馬当確の空気が濃厚になって、小生はむしろ国民党の勝利集会のほうへタクシーで急ぐ。おっと国民党本部前の道路が一キロ手前から進入禁止になっている。おりから雨が本降り。集会にはわずか二千名も集まっていない。勝利したのに、この寂しい風情はなんだろう?奇妙な話ではないか、と思った。
取材後、六福飯店に立ち寄る。K氏が泊まっているはずだから部屋にいたら飲む算段。あいにく不在。ひとりでスナックへ。そこへ知人のSさんから電話。「やけ酒を飲んでいて、合流できない」と言う。電話で林さんを誘うと、「原稿書き。明日早朝に帰国し、番組です」と断わられる。ほか、新聞記者全員は原稿書きでそれどころではない。
ならばいい加減に引き上げようとしたところへ日本人客がふたり。結局、ホテルの部屋に戻ったのは十一時を回っている。風呂も浴びずに寝た。
(某月某日)早朝からテレビは馬勝利、蔡敗北の特別番組だが、同時に行われた立法委員の結果の分析が興味深い。新聞全紙、かなり時間をかけてスクラップ。時計をみると、もう十時半である。いそいで荷物を梱包しホテルをでた。タクシーが掴まらず地下鉄をのりついで南京東路の兄弟飯店へ。
この日は「老台北」と『台湾紀行』で司馬遼太郎が名付けた、かの蔡昆燦さんが主宰の昼飯会。台湾側からは李登輝友の会、民進党シンクタンク、団結連盟幹部に大學教授等ら十数名。
主賓は選挙監視団にやってきた桜井よしこ女史ということだったが、彼女は欠席。小生のとなりは産経の河崎上海支局長。おなじく産経のT論説委員。離れた席に吉村支局長。ここでまた門田さんと再会。日本李登輝友の会のメンバーは団長の梅原さんが挨拶しているうちに東京新聞の迫田さんも遅着した。
入れ違いにホスト役の蔡さん、次の日本人の会合で講演のため早退。なんとも落ち着かないあわただしい会だった。しかし雑談のなかに収穫多く。時間となって、ふたたび荷物をごろごろ引き弦りながら地下鉄で松山空港へ(ホテルから二つ目なのでタクシーが嫌がるからだが)。
空港には国際線ロビィにバアもなく、免税店も品揃えが貧弱で、待合い室で簡単なメモを綴っているうちに搭乗時間。帰りの飛行機もビール二缶飲んだあと、ドンという衝撃で目が覚めると羽田だった。
(後記) というわけで台湾選挙の実際の論評は『正論』3月号、2月1日発売、ならびに『エルネオス』二月号、1月31日発行に掲載します
杜父魚文庫

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