新年が巡ってくると、また年賀状を交換する。もっとも、新春を寿ぐといっても、明治の御代に入ってから西洋を真似て、太陽暦を採用したために、春はしばし待たれる。
青春は春夢とも、呼ばれる。人生のはかなさを意味するが、夏夢や秋夢や冬夢という言葉はない。清少納言が枕草子のなかで、ただ過ぎてゆくものとして、「帆をあげたる船、人の齢(よわい)、春夏秋冬」をあげている。
熟年になると、四季も、齢もただ過ぎてゆく実感が強まる。今年も、印刷した年賀状が多かった。今日では船がエンジンで動くようになって、帆掛け船が見られなくなったように、筆と硯(すずり)が機械によって置き換えられてしまったから、仕方あるまい。だが、初恋の女性から印刷した年賀状を貰ったら、興醒めしてしまおう。
初恋の女性も、齢を重ねていよう。しかし、菫(すみれ)は枯れても、想いが残るものだ。いや、早春は、可憐な梅の花だ。だが、熟年に達してしまうと、蕪村が「水に散りて花なくなりぬ岸の梅」と歌ったようなことになる。
花は、色うつろう。それでも、老いてしまった昔の恋人と、しみじみとした時間を過すのも、楽しいものだろう。思い出は独りではなく、2人で紡ぎたい。小唄に「二人のなかに置炬燵(おきごたつ)」という句があるが、男も女も過ぎた日の夢を大切にして、美しく老いたい。
法隆寺や薬師寺を訪れると、昔の色が剥(は)げてしまっても、そのままにしている。剥落(はくらく)の美が、心をなごませる。
このごろの老女といえば、西洋人の老婆のように、顔を厚く塗りたくっている。まるで中国の古い寺院を訪ねると、赤や青や丹の原色で、異様にくまなく塗り潰しているようで、見ぐるしい。人も、剥落の美があるべきだ。
西洋の春を歌った詩は、絢爛たる黄金の春を讃えるものばかりで、直截的だから興醒めする。日本では、「春はあけぼの」と枕草子が始まっているように、私たちは五感よりも、心を用いる。情緒を大事にする。
このごろの日本の老女は羞(はじら)いもなく、これ見よがしに、ダイヤモンドなどの宝石や、真珠で飾り立てるが、似合わない。いったい、『源氏物語』の女性たちが、宝石を装ったものだろうか。日本人に宝石はなじまない。
私の青春時代には、新橋や赤坂や神楽坂の花街で、深水の絵から抜け出したような、島田を結いあげた佳人が通るのを見て、わきから胸をときめかしたものだった。この国の原風景だった。
いまの日本の女性から残念なことに、花を連想できない。ジャングルを行く特殊部隊が顔に迷彩を施しているように、眼のまわりや睫毛を、アイライナーやマスカラの墨を使って塗りたくっている。日本から目が涼しい女性が、いなくなった。
巷(ちまた)に妖怪がみちるようになった。日本人は宝石や金(きん)のように、永遠に変わらないものに、価値をみることがなかった。
人生の一瞬一瞬ごとを、尊んだ。日本には耐久財というような言葉がなかった。このごろの女性をみると、生花ではない。香りがない造花になった。
西洋の悪臭に近い香水には、しりごみさせられる。つい4、50年前までは、女性が直截的に自己を主張することがなかった。あの麝(じゃ)香のそこはかとなくほんのりと漂う香りに、女心(おんなごころ)が伝わってきた。
齢を重ねるほど、若かった日々よりも、時間が貴重なものになる。「あだしが原の道の霜、ひと足ずつに消えてゆく‥‥」という、近松の『曽根崎心中』のことばと囃しが、胸を打つ。
ぼくは春の雨を好む。細い雨が、音もなく降る。和泉式部が「青柳の糸に玉ぬく春の雨身を知る雨と思いはるかな」と、怨みをこめて詠んだのを想う。
虚子の「春雨(はるさめ)の衣桁(いげた)に重し恋心」も、よい。今日の日本人から春雨を味わうゆとりが、失われた。
そぼそぼと降る春雨に、蛇の目で添い合って、相合傘をする。そんな時に、竹の柄に雫(しずく)が伝わって手が濡れるのを、柄漏りといった。洋傘では柄漏りがしても、端歌にならない。柄漏りという日本語も蛇の目傘とともに、どこかに消えてしまった。
このごろの日本の女は、自分の幸せを求める。だが、幸せは自分から求めるものではない。幸せは結果として、ついてくるものだ。
日本の文化――日本の国柄が、亡びた。女がみな、商女になった。杜甫が国が敗れて、「商女ハ知ラズ亡国ノ恨ミ」と慨嘆したが、私たち日本人は自分で、美しい国柄を壊してしまった。
急いではなるまい。今日の男も女も、体がまるで宅急便になったように、ただ急ぎに急ぐ。能率が高い人生を求めるために、人生までがプラスチックの容器に入った、インスタント食品と変わらなくなってしまった。
心はその人がいくつになっても、心を大切にすることによって、生きている。機械のような、無機的な(つめたい)心をもってはなるまい。
女たちが乞食になったように、高価なレストランで食べたがる。まるで幸福に正札がついているみたいだ。そんな女たちにも、正札がついているにちがいない。
それよりも、コンビニでパンを買って、2人でベンチで昼餉(ひるげ)を摂る。その時に、小鳥とわけ合うパンくずほど、豪華な御馳走はあるまい。春の豊かな饗宴だ。
杜父魚文庫
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