あの時代、これほどに志の高い日本軍人が夥しかった。南京の露と消えた野田毅大尉の崇高なる使命感が行間から溢れ出ている。
<<溝口郁夫編『秘録 ビルマ独立と日本人参謀 野田毅ビルマ陣中日記』(国書刊行会)>>
野田毅大尉は、かつてビルマ独立義勇軍参謀長として、アウン・サンらビルマ人の愛国者を組織し、祖国への愛に燃えた志士30人を率い、ビルマ独立戦争を戦った。
いうまでもないが、アウン・サンは「ビルマ独立の父」と言われる。当時、暗号のようにつけた日本名は面田紋二、娘のアウン・サン・スーチーは、いまのミャンマー民主化のシンボル。
スーチー女史が日本滞在中は浜松など、旧日本軍人の遺族、遺跡を訪ねたこともある。
ながくイギリスの植民地化となって塗炭の苦しみを味わってきたビルマの民衆は、日本軍がやってきて独立を獲得することができて、世界最大の親日国家のひとつになった。その原点は、この野田大尉らが獅子奮迅となって活躍した独立義勇軍である。
野田は不幸にも「百人斬り」というでっち上げ報道の濡れ衣を着せられ、南京の刑場に消えたが、遺書には次のように書かれていた。
「私のビルマ時代の活躍の秘史はもう秘める必要はありません。ビルマは既に独立したのですから。刻刻迫り来る死期ではありますが、忠臣蔵を読んだり、遺書を書いたり、煙草を吸ったり、糞をたれたり、飯はドンブリに相変わらず二杯食ったりです。無実の罪だが、日本が敗れたのだから仕方がない。私の潔白は知る人ぞ知る。(中略)『死して護国の鬼となる。さらば』。ビルマ時代の諸兄によろしく」。
編者の溝口氏が遺族から、一級資料の日記を見せられてから十二年の歳月が流れ去った。戦後六十六年が閲し、ようやくにして野田大尉の名誉回復のチャンスが訪れた。
本書は、その陣中日記で第一級の資料的価値があるが、つぎの文言をみつけた。
「(六月二十八日)吉田松陰が僅か二十九歳で亡くなっている。このオレはそれより一つ年上である。『肺肝それよく何処にか傾けん』と西郷先生は慨された。昭和聖代の、しかもこの御御代に生を受けた男子がこれで良いのか、もっと徹底せねばならぬ。太平洋の怒濤如何に猛り来るって押し寄せるとも頑として動かざる大岩の石のごとく」。
『野田毅 獄中記』という抜粋本が昭和三十四年に刊行されたことがあった。そのコピィを入手した編者の溝口郁夫氏は、その遺書を読んだ作家・火野葦平の次の言葉が気になった。
この人たちの小さな謙虚な叫びを、
吾々が世俗の混迷ゆえに聞き逃すならば、
日本人に永久に救いはないと思う
もはや救いのない状況の祖国の陥落ぶりを草葉の陰から、かの勇敢無双のひとたちは如何に見ているのだろう?(本書『秘録 ビルマ独立と日本人参謀』は国書刊行会。2835円)
杜父魚文庫
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