8990 後藤基夫氏が指摘した戦後リベラルの系譜  古沢襄

政治家がおしなべて小粒となった現在、野田がどうだ、谷垣がこうだと言っても始まらない気がする。強いて言うなら石原都知事の動向なのだが、八十歳になろうとしている老体。ご本人も”石原新党”と持ち上げられても内心は躊躇するものがあるだろう。
最近は政治ジャーナリストの大先輩である後藤基夫(ごとう もとお、1918年10月20日 – 1983年4月5日)氏のことを思うことが多い。1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業、翌年に朝日新聞社に入社した。六〇年安保の当時は朝日政治部のデスク。1981年に東京本社代表となったが、在職中に脳出血のため六十四歳で死去している。
この大先輩のことを私たちは”もっちゃん”と呼んで敬愛した。東大在学中に近衛文麿の昭和研究会に席を置き、その一方で右翼の大物三浦義一とも親しかった。だから戦前・戦後の政界の裏情報には誰よりも詳しかったが、「書かざる大記者」の一生を貫いている。
後藤氏がよく言ったのは「宮廷リベラル、重臣リベラルが、どうして育ってきたかは、まだあまり分析されていない」という戦後政治史批判である。
戦前のリベラリズムの象徴が近衛文麿で、西園寺公を囲む牧野伸顕、木戸幸一、有馬頼寧、原田熊雄が集まったが、軍部の前に結局は失敗している。近衛さんは悲劇の人だったが、西園寺、牧野に代表される宮廷リベラルの力は幣原、吉田、鳩山(一郎)、池田、佐藤とつながっていくという見方である。この系譜には宮沢喜一氏もある。
後藤氏は「戦争をやめた主役は天皇と親英米重臣といわれる存在、それから海軍の一部」と前置きして、幣原喜重郎氏(第44代内閣総理大臣、第40代衆議院議長)の果たした役割を評価している。「吉田さんよりむしろ幣原さんの方が戦後保守というか、一つの軌道の出発点をつくった人じゃないか」と言い切った。
もう一つの指摘は、戦後民主主義を担った政治家の意識の中には「軍部にやられる前の状態に戻るという行動をしていた」「それも政友会、民政党という昔の人事関係の流れをたどって、その政党づくりのために、みんな腹をすかせて歩き廻っていた状況」・・・それが議会主義であり、民主主義だったわけです、と言っている。そこにはGHQに押しつけられた戦後民主主義とは違う日本独自の民主主義が育った点を指摘していた。
私たちは八月十五日の敗戦によって、マッカーサー司令部の指導によって日本の民主主義が革命的に持ち込まれたと思いがちなのだが、実態は多くの戦争批判派や少数の戦争協力派が入り交じって、しかも宮廷リベラリズムが色濃く残った政治形態だったことが分かる。
また本来なら共産党を中心とした民主戦線が伸びる余地があったが、マッカーサー司令部の弾圧によって戦後の混乱の中から新しい政権というのは、保守党以外に出てこなかった政治状況がある。さらに労働組合を母体とした旧社会党は、政権ににじり寄るために保守化して、リベラル左派政権に組み入れられた歴史をたどっている。
後藤氏が亡くなった後、2006年に安倍政権が誕生したが、スローガンとなった「美しい国づくり」と「戦後レジームからの脱却」を取り上げて、戦前回帰の”保守右派”政権と批判を浴びた。安倍氏も自らリベラルとは違う”真正保守”を標榜した。
しかし安倍政権を支えた中川秀直幹事長は「政権を維持するためにウイングを左に広げる」とリベラル色を鮮明にしている。そして”真正保守”の平沼赳夫氏の復党に最後まで抵抗した。きつい言い方をすれば、安倍政権は”真正保守”と”リベラル”の狭間を漂った中間色の政権だったといえる。
巷間伝わる石原新党は、石原氏も平沼氏も”真正保守”を目指しているのは間違いない。だが国民新党の亀井氏は”真正保守”とは言い難い。左派政権だった民主党は広い意味でのリベラル保守色を濃くしているから、同じリベラルの谷垣自民党との違いが見えにくい。
野田政権の失政が顕著となれば、”真正保守”を標榜した石原新党が国民支持を集める可能性がある。だが日本の政治構造の中で、リベラルが深く根をおろしている実態は見逃せない。その間合いをはかっているのが、石原新党構想なのではないか。
杜父魚文庫

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