新聞の投書欄をたんねんに読むようになった、と以前に書いたことがある。三・一一東日本大震災を境に、新聞の読み方が変わったが、その一つだった。いまも続いている。
理由ははっきりしていて、新聞の一般ニュース、解説やテレビの情報番組などとひと味もふた味も違い、自筆の文章が発する一種のオーラを感じ取ることができるからだ。大震災とどうかかわるのかはわからないが、あの日を区切りに、多くの日本人の思考法、発想法がかなり変わった、と私は思っている。深化した、と言ったほうがいいのかもしれない。
今回は次の三つの投書を、要旨だけでもぜひとも紹介したい。すでにお読みの方も当然おられるだろうが、お許しいただく。
まず、一月十八日付の『朝日新聞』声欄、投書主は大学生の小松正平さん(東京都杉並区・二十歳)だ。〈そんなに裕福じゃなくていい〉の見出しがついている。
〈新成人の私たちが生まれたのはバブル崩壊の年。好景気を知らずに育った私たちは、大人から度々「上昇志向がない」などとお叱りの言葉をちょうだいする。しかし、私にはそれが「裕福になれ」という風に聞こえてならない。
大人が疲れた顔で「経済成長!景気回復!」と叫ぶのを見て育った若者の多くは、「身の丈」に合った生活を求めているように思う。そんなに裕福でなくても、学ぶ場所と働く場所、病気を治療できる場所があって、みんなが機嫌良く地道に暮らしてゆければいい。私も私の周囲もそう思っている人がほとんどだ。
私たちだって国民としてこの国を支えたいと思っている。だから大人は疲れた顔でこれ以上叫ばないでほしい。……〉
私が大学生のころだから、半世紀以上前の高度成長期の入り口だったが、議論をすれば、きまって、「小市民的だ」
という言葉がひんぱんに出てきた。社会と深くかかわらず、自分の出世と幸せだけを考えるノンポリ学生を批判する時の常套句だった。小松さんの主張はそれとは違う。むしろ、社会とのかかわり方に、〈身の丈〉という新しい価値基準を設けた、という気がした。
次はやはり一月十八日付の『毎日新聞』みんなの広場欄、主婦、水津敦子さん(千葉県我孫子市・七十歳)の投書だ。〈みんな下流の宴で生き抜こう〉とある。
〈消費税アップに、私は賛成です。所得税は課税範囲を国の裁量次第で広げられます。その点、消費税はものを選んで買うことを通じて、自分で案配できる面が強い。
もちろん消費税アップを決める前に、行政のあらゆる無駄を省くことを具体的に国民の前に提示することが条件です。
いまや、日本人は自腹を切る必要がある時期がきたと思います。ヨーロッパの財政危機は対岸の火事とは言えません。いくら国債の大半を国民が持っているといっても、その国民が生活のために国債を売却しないとは限りません。
国民総中流時代は終わりました。国家が破綻する前に、仲良く下流の宴を広げましょう。戦後はそうやって生き抜いてきたのですから。次世代やよその国に迷惑をかけないためにも〉
◇「身の丈」という新価値は安心、安全につながる
昨年末、国連が発表した各国の豊かさを示す二〇一一年の人間開発指数(HDI)によると、日本は十二位だった。ノルウェーが一位、米国四位、韓国十五位、中国百一位である。
HDIは平均寿命、就学年数、生活水準などを総合評価した生活の豊かさ指数だ。二〇一〇年は同じくノルウェーが一位、日本は十一位、世界第二の経済大国と胸を張っていた時代は確実に去りつつある。
さて、私たちは二十一世紀、どんなライフスタイルで生き抜いていけばいいのか。高齢者の水津さんが次世代のことも思いやりながら、〈下流の宴〉に甘んじようと呼びかけ、新成人の小松さんが〈身の丈〉こそ、と応じる。この世代間ハーモニーには新しさがあり、地についた安心、安全にもつながるのではないか。
もっと稼ごうと目をつりあげて力むのではなく、貧窮に耐えるしかないと悲壮感に浸るのでもない。政治は極力格差を縮めることに力を注ぎ、ほどほどのところに国民的ポジションを定着させる。いい線かもしれない。
とりわけ、〈下流の宴〉という表現に魅かれる。下流といえばみじめ感につながりそうだが、そうではなく中流に届かない、しかし〈宴〉で盛り上げる、という発想は大変貴重なものに思えるのだ。
いま、日本国も日本人も、すべてがうまくいかない、先行きが暗い、とイライラの焦燥のなかに沈みがちだ。さながら漂流国家である。そこから抜け出す新たな生活感覚を二つの投書は示してくれている。
ライフスタイルについて、ついでにもう一つ。昨年十一月二十日付の『毎日新聞』、中学生、植竹萌さん(東京都立川市・十五歳)の投書だ。見出しは〈ケータイがなくなってよかった〉。
〈10月から、ケータイを解約されてしまいました。ケータイばっかりいじくっていて勉強しないからという理由です。
確かに、ケータイがあるときは、肌身離さず持っていたし、常に画面を開いた状態で置いていたので、勉強なんて手につきませんでした。友達とは夜中までメールをし、途中で切ってはいけないという変な気を使って、睡眠不足がちでした。
ケータイがなくなった当初は、すごく不便でしかたがありませんでした。しかし今では、生活ががらりと変わりました。寝る時間が2時間も早くなりました。家族と話す機会も以前より増えて、ケータイがなくなってよかったと最近つくづく思うようになりました。……〉
これも拍手だ。ケータイの功罪論を改めて言うつもりはない。ケータイ浸け、ケータイ中毒に陥っている現状に強い不安を持っているだけ。
以上三つの投書に共通しているのは、発想の切り替えである。それがこの国、この社会を救う。(サンデー毎日)
杜父魚文庫
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