9093 人民解放軍の実力者・劉源上将とは  古沢襄

習近平の登場によって一躍脚光を浴びたのは人民解放軍の実力者・劉源(りゅう げん)上将。文化大革命の中で失脚、非業の死を遂げた劉少奇(りゅう しょうき)元国家主席の遺児である。
第二代中華人民共和国主席となり、中国共産党での序列は毛沢東に次ぐ第二位にあった劉少奇は、鄧小平党総書記とともに市場主義を取り入れた経済調整政策を実施し、毛沢東の大躍進政策で疲弊した経済の回復に努めた。
それが毛沢東から「右翼日和見の誤りを犯している」と批判され、文化大革命の嵐の中で紅衛兵から「中国のフルシチョフ」と名指しで非難、大衆の前での批判大会に連れ出され、何度も執拗な吊し上げを受けた。
1969年10月17日、河南省開封市に移送。寝台にしばりつけられて身動きができぬまま、暖房もないコンクリートむき出しの倉庫部屋に幽閉された。治療も許されぬまま放置され、11月12日に没している。劉少奇の死は高級幹部以外の国民や国外には秘匿された。
毛沢東が死去し、鄧小平が実権を掌握していた1980年2月に名誉回復(平反)を果たしている。
劉源=1951年北京市生まれ。原籍は湖南省。父は元中華人民共和国主席である劉少奇。母は六番目の妻にあたる物理学者王光美。北京師範学院(現「首都師範大学」)歴史学部を卒業。
地方官を歴任し、武装警察に転じた後に軍に進み、20万の軍縮実現が評価され軍事科学院政治委員に栄転し、現在は総後勤部政治委員、解放軍上将。太子党と呼ばれる「二世政治家」の一人としても名前を挙げられる存在である。習近平と親しく、反米強硬派として知られる。
来歴
1951年 北京市生まれ
1982年 河南新郷県七里営公社副主任、副県長、県長
1985年 鄭州市副市長
1988年 河南省副省長
1992年 武装警察部隊水電指揮部第二政治委員、副主任(兼任)
1992年 武装警察の少将(少将警銜)に任じられる
1998年 武装警察部隊副政治委員
2000年 武装警察の中将(中将警銜)に昇進する
2003年 中国人民解放軍に転任、軍の中将に任じられる
2003年 総後勤部副政治委員
2005年 軍事科学院政治委員
2007年 中共第十七期中央委員
2007年 解放軍上将に昇進
2010年 総後勤部政治委員(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
         
杜父魚文庫

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