この冬は、26年振りの厳冬だという。豪雪に見舞われている方々を、心からお見舞したい。
東日本や、北陸、北海道と較べて、東京は常春のようなものだ。米沢市の山のなかで雪によって閉ざされている、旅館の若女将から、年賀状を貰ったので、「東京に住んでいると、『雪もよ(が降るなか)に鴛鴦(おし)(おしどり)の浮寝』といった『源氏物語』のロマンチックな連想しかなく、申し訳ありません」と返事を投函して、詫びた。
東京で生活をしているのに、私は知り合いに出会うたびに、「寒いですね」とついこぼしてしまう。
もっとも、日本では挨拶がわりに天気について話題にするが、イギリス人に似ているのかもしれない。イギリス人は会うと、すぐに天気の話をする。はにかみ屋だから会話に取りかかるのに、ふさわしい話題がないので、まるで不文律のようにかならず天気から入ってゆく。社交の挨拶となっているが、日本人によく似ている。
それでも、私は「寒いですね」というたびに、忸怩(じくじ)とする。
幼い時から両親から「寒い」とか、「暑い」とこぼしてはならないと、教えられてきた。何についても、ちょっとでも不平を唱えると、叱られた。また何が美味しいとか、不味いとかいってはならないと、厳しく躾けられた。
だが、腹が立つ。この原稿を書いている時点で、もう3日も4日も続けて、NHK総合テレビがチョコレートを取り上げて、2月14日の“バレンタイン・デー”とかへ向けて、チョコレート熱を煽っている。
今朝の7時の総合テレビのニュースでも、記者とカメラマンを地球の向こう側のいくつかのチョコレートの産出国まで派遣して撮った興味本位の映像を、長が長がと垂れ流していた。
それだったら、明日は日本が誕生した紀元節――「建国記念の日」だ。高千穂の霊峰や、御供田や、神宮や神社で神職や、巫女が紀元祭の準備にいそしんでいる姿を放映すべきなのに、そうすることがまったくない。
「建国記念の日」は、国会が制定した祝日である。それを無視するのでは、公共放送の資格がない。
戦争に敗れて日本全国が焼土と化した時に、アメリカ兵が疾走するジープのうえから、あとを追う日本の子供たちに、チューインガムやキャンディや、チョコレートを、面白がってばら撒いたものだった。
それをきっかけにして、「ギブ・ミー・チョコレート」が、新しい日本の建国神話になったのだろうか。
今日の日本で、チョコレートをこれ以上貪ることを煽り立てるのは、筋違いである。精神的健康にも悪い。それよりも建国記念の日にちなんで、消費が落ち込んでいる米や、日本酒を盛り立てたほうが、農民や酒造りに精をだしている同胞を、励ますことになろう。
私はNHKを地上波の教育放送以外は解体して、民間に払い下げるべきだと思う。深刻な財政難に陥っている時に、日本放送協会を“仕分け”の対象にして、競売にかけて売却すれば、不相応な厖大な資産をかかえているから、国益にそうことになる。
NHKの存在感とは
娯楽が過剰な時代に、どうして国民から視聴料を徴収して、巨費を投入して“大河ドラマ”や、“紅白歌合戦”や、韓流ドラマをはじめとする娯楽を提供する必要があるのだろうか。浪費としかいえない。
NHKのNは、日本の頭文字であるはずだが、日本の名にまったく値しない。
なぜ、NHKを存続させて、高額な視聴料を半ば強制的に取り立てるのか。NHKを廃止して、その分を財源が枯渇している高齢者福祉に回すべきだと思う。
放送大学を民営化して有料にするか、栄光ゼミナールや、くもん、ベネッセなどの豊かな巨大な学習塾がいくつもあるから、喜んで放送大学を買うのではないか。
NHKはNHKエンタープライズや、NHK出版をはじめとする無数の下請企業を抱えているが、みな伏魔殿となっている。NHKのKは、日本の国富の「寄生虫」のKではないか。
私はこの28年にわたって、ボランティアとして全国盲人写真展の会長をつとめてきた。10数年も前のことになるが、フィルムメーカーが協賛してくれたことがあった。
すると、NHKエンタープライズから、協賛企業がNHKエンタープライズに要求額を支払えば、「NHKが写真展を取材、放映して、“さりげなく”協賛企業の名前を大映しにする」と申し入れてきた。私はその時から、NHKの視聴料金を納めることを拒んで、いまに至っている。
NHKが「昭和天皇戦犯裁判」や、日本の台湾統治が残虐なものだったという、良識ある新聞や、雑誌だったら取り上げることがない、奇矯か、病的としかいえない偏向した番組を、しばしば放映してきたことはよく知られている。
暴力団が「反社会勢力」と、呼ばれるようになっている。NHKも日本社会を蝕む、巨大な反社会勢力である。善男善女が視聴料を納めることによって、反社会勢力を幇助しているのだからおぞましい。
日本の神話は比類のない独特なものだ
建国記念の日に戻れば、初代の天皇の即位を祝う日である。天皇が日本国民の精神的安定を支えていることに異を唱える者は、少ないはずだ。
天皇がいない日本は、和を失って、中国や朝鮮と変わらなくなってしまおう。日本神話は、世界の諸民族の神話と較べて、比類のない独特なものだ。
他の神話の最高神は絶対権力を握って独裁しているが、天照大御神は天の岩屋戸の物語をとっても、最高の権威であっても、権力を振うことがない。日本の神々はいつも額を集めて、相談している。これは、日本の国柄を現わしている。
天上から天津神(あまつかみ)が降りてくると、それまで日本列島に住んでいた国津神(くにつかみ)と、共生する。仏教が渡来すると、神道と互いに排斥することなく習合した。
7世紀に聖徳太子が『17条憲法』を公布したが、第10条は「自分だけが賢いと思ってはならない。人にはそれぞれの思いと、考えがある」と、諭している。
「独り治むるべからず。民の扶けを待つ」
その41年後に大化改新が行われると、皇極天皇が詔勅を発して、「独り治むるべからず。民の扶けを待つ」と述べている。日本は、和の民なのだ。
日本を束ね、その国柄の中核として、皇室が存続してきた。天皇が日本国民の絆をしっかりと支えていることが、昨年の東日本大震災によっても明らかになった。
今上天皇は125代目に当たるが、125人の天皇のなかで、1人として贅に耽った天皇が存在しないのも、他国ならまったく考えられないことである。
日本は世界に誇れる独自の文化と、歴史を持っている。それが、日本の力となってきた。それなのに、先の大戦に敗れてから、あの敗戦の日以前の歴史を捨ててしまった。
多くの日本国民がアメリカは230年あまりの歴史しかなく、歴史が浅い国だといって軽蔑する。だが、日本は67年以前の歴史を捨ててしまったから、世界のなかでもっとも歴史が浅い国となっている。日本は根のない国となっている。
歴史は一国の魂である。いまの日本は魂を失って、抜け殻のような国となっている。
独立国は自国の歴史と文化を、誇りにしなければならない。占領下でチョコレートと魂を交換してしまったのでは、この国を守り盛り立ててきた先人たちに対して、申し訳ない。
人も国も自尊心を失っては、立ち行かない。
杜父魚文庫
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