やはり、このお方のことを記しておきたい。その方は、札幌に生まれ、札幌の中島公園にある彌彦神社の宮司の妻として生き抜き、そして、宮司の母として、三月六日に天に帰られた中村充江さんだ。享年八十四歳だった。
中村充江さんは、国のことを思われ、その国の為に一身を捧げる思いでおられた。それ故、国のために尽くそうとしている者達への、誠心誠意の支援、激励を惜しまれなかった。
私が、尖閣諸島魚釣島に上陸視察してきて後、札幌で講演させていただいた時、雪の堅く凍った道を和服で歩いて聴きに来てくださった。
その時の情景は、今も瞼に残っている。和服の似合う美しい方だった。それから、お手紙を戴き、年に二度ほど札幌に伺うときはもちろん、東京の私の集会にも足を運んでくださった。また度々、神社の御神酒を送って下さった。ありがたいお酒だった。
昨年は、五月三日と八月三十日の二度、札幌を訪れた。そして、二度、充江さんとお会いすることができた。この二度とも、街頭演説をしたが、五月だったと思うが、すすき野と狸谷の交わる当たりで夕方の「たちあがれ日本」の街頭演説をしたとき、充江さんは、寒いのにがんばって、その繁華街に来られて私の演説を聴いてくださった。
昨年ではないが、札幌の仲間が、「赤の広場」とよぶ札幌の雪祭りの行われる大通公園で、夏も冬も街頭演説をしたが、充江さんは、そのいずれも参加してくださった。
妙に、雪の大通公園で和服で立っておられる充江さんの姿が想い出される。何故、大通公園を「赤の広場」と呼ぶかというと、北海道の「左翼」がよく大通公園で街頭集会やイベントをするかららしい。
また、札幌の市長は、「自衛隊は嫌い」と大江健三郎のようなことを言う人物らしいが、雪祭りの雪を自衛隊が公園に積み上げることは当たり前と思っている。こういう市長の管理する公園は、やはり「赤の広場」なのだろう。
この「赤の広場」をもつ札幌だからこそ、彌彦神社をはじめとする各神社の存在と充江さんは、札幌の宝だと言える。
お会いすることの最後になってしまった昨年の八月末、充江さんは、足腰が弱ったようなことを言っておられたが、お元気そうなので、安心してお別れし大阪に帰った。
そして、瞬く間に、晩秋から年末年始を経て三月に入ったが、テレビで札幌の氷点下の気温が示される度に、充江さんお元気かなと思いつつも、まさか、三月七日朝、訃報に接するとは思いもしなかった。
三月七日、早朝の駅立ちを終えて事務所に入ると、充江さんの訃報に接した。七日午後と八日の予定を空けて、札幌に伺うことにした。七日午後七時前、千歳空港に着き、同志の山田さんに会い、札幌駅で佐藤さんに会った。若き同志だ。
この札幌の二人とも、充江さんに日頃世話になっているのだが、彼等も私と同様、急な訃報に驚いている様子だった。そして、私に、「充江さんは、二月十一日の建国記念日の集会に出席しておられましたよ。会場のホテルの前の方のいつもの席に、充江さん、座っておられましたよ」と言う。
「そうだったのか、それでは、急にお亡くなりになったのだなー」と私も応じた。そして三人でお通夜の席に急いだ。そのお通夜の席で、充江さんの最後の様子の説明があった。その説明では、充江さんが、二月十一日に、建国記念日式典に出席することは不可能だった。
しかし、その席で私は思った。若い二人の同志が、二月十一日に充江さんを会場で見ている、それは、やはり充江さんが、そこに来ていたからだ、と。その時、充江さんの体は、病院のベッドに横になっていたが、充江さんは、建国記念の集会に参加されていたのだ。
翌三月八日の葬儀が始まる前、充江さんのお嬢さんが、私に弔辞を述べるよう言われた。私は、充江さんの棺の前で言った。純粋に誠心誠意、祖国を愛する人の、魂は何時までも祖国とともにある。
充江さんは、存在の仕方が変わっただけで、今も私たちと共におられる。これから、歌を歌う。それは「蛍の光」の戦後奪われた歌詞だ。これは、別れの歌ではない。これからも、共に歩む為の歌だ。
筑紫の 極み、道の奥
海山 遠く、隔つとも
その真心は 隔てなく
一つに尽くせ 国のため
充江さんの棺を見送り、葬儀会場を出ると、外は吹雪だった。大通公園で下車し、氷の上を吹雪が舞う公園を歩いた。あの時、あそこに充江さんが、和服で立っていたなー、と思いながら。一時間以上大通公園にいて、時計台の前を歩いて札幌駅に出た。
葬儀の時、充江さんの大好物を、お孫さんが棺の前に捧げ置いた。それは、赤ワインのボトルとグラスだった。嬉しかった。
それを思い出し、サッポロビールをがぶがぶ飲んでから、赤いワインのボトル一本を飲み干した。そして、いつも母のように励ましてくれた充江さんに感謝した。この純粋な、誠心誠意の人のことを私は忘れることはない。
充江さん、ありがとうございます。
これからも、いつも励ましていただく。
俺、がんばるよ、
と札幌を後にした。
杜父魚文庫
9248 三月八日、吹雪の札幌 西村眞悟

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