若いころ、よく偶然と必然とは何であろうかとぼんやり考えました。何かをきっかけに、次々と関わり合いのある人や物と出会う、ぶつかるという経験を幾度か繰り返し、これはたまたまその問題に関心があるから目につくのか、それともやはり何か縁のようなものが存在するのかと、結論なんか出るはずもなくぼーっとあれこれ思っていました。
なんでわざわざこんなことを書くかというと、今朝、偶然とは面白いなあと改めて感じることがあったからです。私は先日のエントリで、1951年5月にマッカーサーが米国上院委員会で行った大東亜戦争の原因にかかわる次の証言に触れました。
《もしこれらの原料の供給を絶ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼ら(日本)は恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです》
で、今朝夕刊当番で早くに出社し、政治部のブースに置かれていた雑誌「月刊日本」3月号をパラパラめくっていたら、稲村公望・中央大学大学院客員教授が、昨年刊行された米フーバー元大統領の「回想録」から次のようなフーバーの証言を紹介していました。
「私は、ダグラス・マッカーサー大将と、(1946年)5月4日の夕方に3時間、5日の夕方に1時間、そして6日の朝に1時間、サシで話した。(中略)私が、日本との戦争の全てが、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト元大統領)の欲望であった述べたところ、マッカーサーも同意して、また、『1941年7月の金融制裁は、挑発的であったばかりではなく、その制裁が解除されなければ、自殺行為になったとしても戦争をせざるを得ない状態に日本を追い込んだ。制裁は、殺戮と破壊以外の全ての戦争行為を実行するものであり、いかなる国と雖も、品格を重んじる国であれば、我慢できることではなかった』と述べた」(※『』は分かりやすくするために阿比留が入れました)
マッカーサーの主張はけっこう一貫しているなと思いながら、今度はやはり政治部のロッカー上に置かれていた山田宏元杉並区長の「『日本よい国』構想」という本を手に取り、同じくページをめくっていたところ、歴史教科書採択時における区議会でのやりとりの模様が記されていました。
《共産党などからは、非常に細かく執拗に私の歴史認識について質問がありました。しかも、時には傍聴席に動員された人たちから大声で野次が飛ぶような状況でした。
そのときに、「1951年5月のアメリカ上院軍事外交合同委員会で、マッカーサー元帥が『日本人が戦争に入った目的は、主として自衛のためだった』と証言している」と述べ、あまりに騒がしいので、その部分を英語で紹介したら、議場はいっぺんにシーンと静まりました。正確な知識が勇気を生み、信念となるのです》
その議場の場面を見たかったと思わせる描写ですね。まあ、マッカーサーがそう言ったからといって、それが錦の御旗やお墨付きとなるわけではないでしょうが、興味深いところです。
で、特にマッカーサーを意識したわけでも、マッカーサーという語句を探したわけでもないのに、関連するエピソードが続いて目に飛び込んできたので、冒頭の話となったわけでした。ちょっとこじつけ気味でしたでしょうか。
ただ、あの戦争からこれだけ長い時間が流れたからこそ、冷静に事実を見つめられるという部分もあるでしょうね。歴史認識がらみでいうと、河村たかし名古屋市長の南京事件に関する発言についても、メディアの報道は以前とは比べものにならないほど落ち着いています。これが10数年前だったら、鬼の首をとったからのような河村バッシングが展開していたことでしょう。
先日、外務省関係者と話をした際も、メディアの対中報道の変化が話題になりました。彼は、「最近は産経が突出するのではなく、朝日も含めて各紙の対中報道が大きく異ならないようになってきた気がする。なぜだと思うか」と意見を求めてきました。まあ、それでもまだ各紙により相当の濃淡はあると思いますが、朝日は先日も1面でチベット僧による中国政府への抗議の焼身自殺問題を取り上げていましたし。
とりとめもなくなりました。まあ、世の中変わらないように見えて、実は少しずつ、でも積み重なると大きく変わっていくのだろうと思います。
杜父魚文庫
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