産経新聞の山本勲中国総局長が閉幕した全人代を機に「中国政治は闇の中」という解説記事を北京から送ってきている。共同通信から伊藤正氏が産経に移籍してから十二年の歳月が経った。前中国総局長だった伊藤氏の後任が山本氏。
山本氏の記事を読みながら北京・産経は確実に強くなってきているという思いを深くする。伊藤氏が築いた人脈を受け継いでいるからである。
王立軍重慶副市長が成都市にある米国総領事館に政治的保護を求めて駆け込んで以来、北京の欧米各特派員が事件の真相を求めて様々な速報記事を送ってきた。この事件の背景には中国の権力争奪をめぐる胡錦濤国家主席ら共産主義青年団(共産党の青年組織)閥と江沢民前国家主席系の上海閥・太子党(高級幹部子弟)派の争いがある。
秋に開かれる第18回共産党大会で習近平国家副主席ら次世代への世代交代が行われる。太子党派といわれる習近平の権力基盤がまだ固まっていない。日本の野田首相ではないが、ソロリソロリと党内基盤を強化することを余儀なくされるだろう。同時に”革命は銃口から生まれる”のだから、人民解放軍を握ることが必要である。
まさに「中国政治の一寸先はいつも深い闇の中だ」の言葉が当てはまる。
<中国の全国人民代表大会(全人代=国会)が14日、閉幕した。来春引退する温家宝首相の施政方針演説が新味を欠く一方で、内外の関心は重慶市トップの薄煕来・党委書記の一挙手一投足に集中した。大会1カ月前の深夜、側近中の側近だった王立軍副市長が四川省成都市にある米国総領事館に政治的保護を求めて駆け込むという、前代未聞、スパイ小説さながらの事件が起きたからだ。
各種情報によると、2月6日深夜、1台の車がひそかに成都の米総領事館に入り、翌日には警察車両約70台が周囲を包囲した。
駆け込んだのが王副市長で、包囲したのが薄書記の命で身柄を取り戻そうとした重慶市当局とされる。米国は王氏の要求を受け入れず、同氏は重慶に戻ることを固く拒み、身柄は中央の国家安全部が拘束、北京で取り調べ中だ。
内外の強い関心にはさらに深い理由がある。薄書記は秋に開く第18回共産党大会で最高指導部の党政治局常務委員会入りが有力視されていた。党大会では、胡錦濤国家主席ら現指導者から習近平国家副主席ら次世代への世代交代が行われる。
現在の常務委員会(9人で構成)では江沢民前国家主席系の上海閥・太子党(高級幹部子弟)派が6人を占め、共産主義青年団(共産党の青年組織)閥の胡主席、李克強副首相と無派閥の温首相は少数派だ。
このため指導力を十分発揮できなかった胡主席としては、何としても自派閥で多数派を構成したいところで、江派と水面下で熾烈(しれつ)な勢力争いを繰り広げている最中だった。
薄書記は習副主席と同様、父が副首相を務めた太子党の有力者。江前主席との関係が緊密で毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい評判が胡主席らに疎まれたか、2007年秋に中央政府の商務相から重慶市書記へと、遠ざけられた。
そこで薄書記は重慶で暴力団撲滅と毛沢東賛歌を歌う運動を大々的に展開、成果を全国に宣伝した。腐敗官僚や暴力団が幅をきかし、貧富格差が拡大する中で、この運動は当初、庶民の喝采を浴びた。それは現状を招いた胡政権への批判とも、“挑戦状”とも受け取られた。
王副市長は以前、遼寧省省長を務めた薄書記が暴力団撲滅のため同省から呼び寄せた公安のプロ。市公安副局長に着任した08年6月から9月末までに「約3万3千件の刑事案件を摘発、9500人を逮捕した」(重慶市当局)という。通常の法治国家では考えられない数字で、冤罪(えんざい)の訴えがあふれている。
一時は英雄扱いされた王副市長は2月2日に突如、兼務していた公安局長を解任された。「胡錦濤派が王氏の悪行を調べ始めたため、薄書記がトカゲのシッポ切りを図った」との見方が出始めた。王氏は「身の危険を察し、米総領事館に駆け込んだ」と告白しているという。
全人代閉幕後の会見で温首相は事件に触れ、「法に基づき厳格に処理する。重慶市の党・政府は反省し、真剣に教訓をくみ取らねばならない」と厳しい表情で語った。薄書記の常務委入りは難しくなった。
胡主席としてはこれを機に同書記の責任をとことん追及して威信を確立し、党大会人事を有利に運びたいところだ。しかし江派の反撃も予想され、これから両派の権力闘争がどう展開するか分からない。薄書記の処遇も最後は双方の力関係で決まるだろう。中国政治の一寸先はいつも深い闇の中だ。(産経)>
■伊藤正(いとう ただし、1940年6月2日 – )=産経新聞特別記者兼論説委員。前中国総局長。中国報道で知られる。
東京外国語大学中国語科卒業後、共同通信社に入社し、外信部記者として香港、北京、ワシントンの特派員を務める。共同通信社時代の北京赴任は1974年から1977年、1987年から1991年の2回にわたり、2度の天安門事件(四五天安門事件、六四天安門事件)をいずれも現地で取材した唯一の西側諸国記者。
最初の北京赴任から帰国後、四五天安門事件や四人組政変など中国情勢をめぐる分析記事を雑誌メディアを中心に数多く発表。また中国社会の実相を伝えるルポルタージュを『チャイナ・ウォッチング』(1981年)、『チャイナ・レビュー』(1981年)、『中国の失われた世代』(1982年)などの書籍にまとめた。
当時の中国は対外開放に向け舵を切りつつあったものの、海外メディアに対する取材制限は未だ厳しく、特に一般大衆に対する取材は全く許可されていないという状況だっただけに、大衆の生の声を地道に取材したこれらのルポルタージュは広く注目を集めた。
その後1983年から1986年まで特派員としてワシントンに赴任、1987年より北京支局長として再び北京に赴任した。在任中の1989年に六四天安門事件に遭遇、共同通信社北京支局も入居する外国人居住区が中国人民解放軍部隊による包囲・銃撃を受ける中で、取材の陣頭指揮にあたった。
1991年に帰国し、外信部次長に就任。1996年の在ペルー日本大使公邸占拠事件で共同通信社の記者の突入取材の是非が問われた問題では、共同のスポークスマンとして多くのメディアに登場し、取材の妥当性を強く主張した。1998年からは論説委員長。
2000年に共同通信社を退社し産経新聞社に移籍。中国総局長を長期にわたって務めている。これまでに『再考・天安門事件』(2001年)、『鄧小平秘録』(2007年)など大型の企画記事を中心に執筆。鄧小平の権力掌握までの歩みと改革開放路線の内実を総括した後者の連載は産経新聞出版より2分冊にまとめて書籍化された。2009年には同書の出版により日本記者クラブ賞を受賞した。(ウイキペデイア)
杜父魚文庫
9270 中国政治の一寸先はいつも深い闇の中 古沢襄

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