薄き来失脚後、重慶市書記に落下傘の張徳江は旧満州育ち。父親の張志毅は第四野戦軍の砲撃部隊参謀から陸軍少将。
張徳江は現在の遼寧省鞍山市管轄の寒村(遼寧省台安県桓洞鎮)に生まれた。十八戸しかない寂しい農村で隣村まで二十キロ。道路はぬかるみ、凸凹道をバスで四十分かけると村役場に到着するという辺鄙な土地である。
現在、同村で張一家のことをしる村人は殆どおらず、判明しているのは張徳江が1972年に吉林省王生県革命委員会宣伝部幹部として登場し、延辺大学朝鮮語系の学生となったこと(ちなみに延辺大学は現在の東北三省ではエリート大学)。
1975年に同大学朝鮮語系支部の副書記となり、翌年に党の常務委員、やがて副校長として出世した。この沿歴から朝鮮族ではないかとも言われる。
78年、張徳江は北朝鮮に留学する。留学先は金日成総合大学経済学部。留学生委員会書記を務めた。
二年後に帰国し、延辺大学党委員会常任委員。83年に吉林省延吉市副書記、85年に同省の延辺州副書記。以後トントン拍子に出世をとげて、90年吉林省副書記、95年同省書記になった。98年には兼務で全人代常任委主任。98年9月に浙江省書記へ転出。辺境から上海周辺の経済繁栄区の書記という人事。これは大栄転である。
そして2002年、張は中央政治局委員。広東省書記となる。広東省書記といえば、上海に次ぐ経済大国。繁栄のメッカのど真ん中に落下傘降下した意味は深い。江沢民の引き立てである。
張の前の広東省書記は政治局常務委員となった李長春で、かれは山東省書記時代に法輪功弾圧に功績があり、江沢民に認められた。チベット弾圧でトウ小平に認められたのが胡錦涛であったように。
江沢民派にとっては、なんとしても華南の拠点=広東省をおさえる必要があった。広東人は反中央の政治色が濃く、かつ革命の魁的存在(孫文も葉剣英も広東人)。広東省に集中する製造業の冨をおさえるのも派閥力学上、欠かせない条件である。
張徳江は広東省書記として珠海デルタ三角地帯構造を実践し、マカオ、珠海、深センの三角地帯の連動的経済発展に尽力したが、05年SARS発生や、工場のストライキ、広東省南部の暴動頻発などに遭遇した。このため辣腕の裏側に政治力への疑問も残るが、第十七回党大会では副首相に抜擢される。
▼太子党 vs 共青団 激突の中和剤?
胡錦涛ら共青団は、張徳江とはそりがあわない。
政治局員であり副首相であり、しかし江沢民派であるため「事故処理」専門の副首相として国内の多くの事故の事後処理に忙殺された。
この同時期に王岐山も「消防士」の異名をとるほどに金融危機、北京五輪に対応したが、張の担った事件は2009年の黒竜江省鶴岡の爆破事故、河南航空事故、11年7月の温州新幹線大事故などだった。
これら一連の事故処理実績(?)が評価され、薄き来失脚に伴って重慶市書記となる。しかし浙江省書記、広東省書記を経験した副首相が、僻地の重慶書記へ飛ばされるのだから左遷といえば左遷と解釈出来る。
さて張徳江夫人は辛樹森。1983年に長春冶金建築学院の工業建築学系に学び、東北財経大学卒。中国建設銀行幹部で、人事部副主任という高いポストにつき、政治協商会議委員。上級エコノミスト。名前から朝鮮族ではないかと判断される。
張徳江の背景には父親、張志毅の輝かしい軍歴がある。父は1912年生まれで、31年に抗日ゲリラ戦争に加わり、36年に南京の砲術部隊で訓練を受けた。以後、軍隊では砲撃を特技とした。38年に八路軍に編入され、同年共産党へ加入し、延安へ赴いた。
国共内戦時代には東北民主連合軍の後方参謀長、第二砲撃部隊団長から第四野戦軍の副参謀長(林彪の部下)、四平、吉林、遼陽、鞍山を転戦し、中華人民共和国成立後は牡丹江砲兵訓練基地司令員(基地のトップ)。第四砲術学校校長、幾多の勲章をもらい、少将となって1997年まで生きた。
杜父魚文庫
9308 重慶市書記に落下傘の張徳江は朝鮮族? 宮崎正弘
宮崎正弘
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