9405 王洋『広東モデル』と薄き来「重慶モデル」 宮崎正弘

GDP成長率が著しく鈍化した広東省では大気汚染、河川毒、経済不況。この『三大汚染』が「広東モデル」なのか、王洋書記への批判が強まる。
メディアの多くが「薄き来のライバル」と呼んだのは広東省書記の王洋である。王洋は団派、共青団のあつい支持の下、胡錦涛、李克強は過去五年間に一度も重慶の視察には行かなかったが、広東省には足繁く赴き「経済発展のモデル」「広東の遣り方を見習おう」と礼賛した。
実際に広州市のひとりあたりのGDPは1万ドルを超えた。だから薄失脚の後、王洋には『我が世の春』がくる筈だった。
嘗て広州は「全国のモデル」と言われ、広東省の熱銭は中国人全体のあこがれの的、多くの出稼ぎが広東へ流れ込んだ。
広州のまわりにはトヨタ、ホンダが進出し、下請け孫請けの部品メーカーはどっと広州郊外へ進出したため一大生産センターと化し、物価は跳ね上がり、人件費は飛躍し、電気、電子部品、精密機械部品などのメーカーも蝟集したため、すごい繁栄がもたらされた。
この経済成長はたまたまの僥倖であり、広東省書記の王洋、個人的力量とは無縁である。
ところが王洋は「冨の分配」も重要とばかり、「改革」と叫びながら、じつは高級官吏の増産に勤しむ。広東省副省長が十名。なかでもランキング第三位の副省長に部下の朱小丹を充て、さらには仏山市の一局に19名の「副局長」と7名の「常任副局長」を置くなど、人事面での大盤振る舞いをやらかした。古参幹部からの突き上げもあって党内での人気を高めたかったのだろう。
深センでは香港と繋がる羅府区のとなり、急発展の福田区を市政府と官庁街にしたが、まわりには五つ星ホテルばかりの建築許可を出した。
その結果、五つ星ホテルが乱立し、摩天楼こそ壮観を究めるが稼働率は5-30%しかない。要するに作り過ぎである。深せんはビジネス客の出張こそ多いが観光資源が希薄なため観光客が来ないからだ。
他方、深センは人口がいまでは1450万人!(戸籍人口で北京を抜いている。広州の正式戸籍人口は740万、香港は790万)。
2011年7月の新幹線事故で、まっさきにあおりを食ったのは深センー広州を繋ぐ新鉄道、新幹線の開業が遅らされたことだった。八月開業が二回も延期され、ようやく昨師走に開業した。だが、深セン北駅止まりで、羅府には直結しておらず、予定されている香港への新幹線乗り入れは計画倒れに終わるのではないかと囁かれている。
▼高級官吏増員と五星ホテルの乱立が「改革」の中味だった
景気が暗雲に襲われたかのように急に陰った。輸出のおちこみは華南全体で20%程度、俄然、失業が広がり、マンションは売れ残り、治安は悪化する。
深せんの不動産斡旋業だけで20万人が解雇された。取引が薄く、値引きもほどほどにしても客足は遠のいた。深せん市内のタクシーはがら空き、日本の惨状に似ている。手を挙げると三台ほどが駆け寄ってきそう。
加えて広東省には「三大汚染」がある。火力発電の乱立による大気汚染、鉛中毒、光化学スモッグ。河川の汚染により飲料水が払底し、くわえて原因不明の害虫やウィルスによる食中毒など。
思い出されたい。十年ほど前に沖縄に上陸した「広東住血線虫」というのは遠くマダガスカルから広東に運ばれ、これは鼠から排泄されたナメクジの一種だが、幼女が犠牲になった。河川の汚染や不潔な動物養殖、工場の廃液、火力発電などが原因である。
「経済繁栄は過去の話になった。景気が下降方向にあるときに高級官僚を水増しし、景気が悪化方向になるというのに歳入より多い歳出。しかも創出されたプロジェクトはうまく行かず、ユニバーシアード(昨夏、深センで開催)、2010年のアジア大会(広州)のためにとあちこちに施設を作り、それらは廃墟と化しつつあり、王洋のとなえた『広東モデル』も挫折の季節だ」と批判が渦巻いている。
薄き来の「重慶モデル」に勝ったはずの王洋『広東モデル』にも限界が見えた。(註 王洋の「王」はさんずい)
      
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(読者の声)貴誌3612号にある「胡耀邦追慕の清明節を中国メディアが強調―  江西省共青城市郊外の胡耀邦陵墓には党幹部や企業経営者等が陸続と参詣」の記事ですが、なるほど、時代を経て後世の人々の中で存在感が増してきたということでしょうか。一方、田中角栄のお墓はほとんど参拝客がいないとか。これも後世の評価でしょうか。(naka)
(宮崎正弘のコメント)理念を追求した政治家と利益を追求した政治家とは峻別されてしかるべきではないでしょうか。「秀吉は学歴がなかったが教養はあった。今太閤と呼ばれたかの人は学歴も教養もなかった」(村松剛)。
杜父魚文庫

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