天安門事件の闇、日中、米中会談で方励之夫妻の米国亡命条件を煮詰めた・・・。天安門事件にいたる中国民主化運動の象徴的存在だった方励之博士が死去した。亡命先のアリゾナ州で享年76歳。方励之は天体物理学者で核物理にも明るく、当時は中国科学技術大学副学長。
方博士死去のニュースは民主化運動の理論的指導者で現在台湾にいる王丹がツィッターで流し、たちまち世界に伝播し、BBCが伝えるや、どっと中国国内のネット情報にも流れた。中国当局はただちに「微博」などのネットを封鎖した。
1989年春から中国の民主化は頂点に達しようとしていた。天安門広場には百万人の学生、労働者、知識人が座り込み、自由の女神像が建立された。
「その過程で方励之博士は自由・人権を勇気を持って鼓吹された。われわれの精神的支柱だった。いまも民主化を望む中国人の支えであり、このような人物がいたことを将来の中国は誇りとするだろう」(王丹)
さて歴史的事件と言えば、方励之夫妻はいかにして米国への亡命が達成されたか。いかにして米国と中国が秘密裏の水面下の交渉をやりとげ、途中で挫折し、そのあと、なぜか、そこに「日本」が介入し、日本のカネが政治取引されて、米中の難交渉がまとまったのか。
その謎を多くの華字紙、ウォールストリートジャーナルなどが書いている。
方励之はけっきょく、天安門事件から一年後の1990年6月25日、米国が秘かに飛ばした軍用機で「第三国」を経由して米国へ逃れた。
北京の「南苑軍事飛行場」と言えば、1971年にキッシンジャーが秘密訪問した折の着陸地点、方夫妻はここから米軍機でアラスカへ飛び、当時のダン・クエール副大統領専用機(USエアフォース・ツー)に乗り換えて英軍ヘイフォード基地へ一度着陸した。ここは米軍管理下だが、英国籍のため、これで「第三国」へ入国という条件はクリアされたわけだ。
▼最初の密使はキッシンジャーの弟子=スコークラフト補佐官だった
さて秘密交渉の道筋だが、天安門事件により日米欧は中国への経済制裁に踏み切り、当時いわれたことは89年末に返済期限のくる80億ドル前後の債務を中国は外貨準備不足から返済不能に陥る懼れがあるとされていた。
制裁に加わらなかったのは台湾の中小企業である。台湾の中国進出は、じつはこのときから本格化した。
日本は渋々と欧米主導の対中経済制裁に同調した。しかし、制裁を声高に唱えたワシントンだが、直後にブッシュ大統領はスコークラフト補佐官を北京へ飛ばして秘密交渉を開始していたのだ。
同年秋にはニクソン元大統領とキッシンジャーという、中国にとって「井戸を掘った古い友人」が北京を訪問、10月31日と11月9日の二回、トウ小平と会見した。
方励之が米国へ事実上の亡命を黙認する条件が話し合われ、「病気療養」「米国で政治活動をせず天文物理学に専念する」「第三国へ出国する」などの諸条件が煮詰められていたのだ。
ところが同年11月、ベルリンの壁が倒され、12月には最後の東欧の独裁者チャウチェスク夫妻が処刑され、中国は衝撃をうけて交渉は中断する。中国は和平演変を叫び、欧米の介入を陰謀と解釈して警戒した。
このおり、日本が動いた。
前年の竹下訪中で1990年から五年間で円借款8100億円が決まっていた。ところが、日本はG7のメンバーであり、経済制裁に同調している以上、借款の実施は遅延していた。これを緊急に再開することを「条件」に方励之夫妻の米国亡命は取引されることになった。
ウォールストリートジャーナル(4月9日付け)がそのことを明示している。
その後、米中会談は北京で断続的に続き、1990年6月21日に最終文書がまとまる。そして6月25日10・30、厳戒体制下の北京市内をパトカーに現住に囲まれて方夫妻は南苑軍事基地へ送られ、米国大使の見送りを受けて12・40に中国を後にした。
杜父魚文庫
9434 方励之の出国は日本の円借款再開が条件だった 宮崎正弘

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