リーダー論がさかんである。各国のトップが決まったり絞られたりしてくるのに、日本だけ次の首相有力候補の顔がさっぱり見えてこない。そのいらだちもリーダー論を誘発する理由の一つだ。
上映中の映画「マーガレット・サッチャー−鉄の女の涙」を見た。サッチャーはいま86歳、娘が回顧録で認知症に苦しんでいることを発表したのは4年前だった。
先進国で史上初めて一国のトップに立った女性、元英国首相のサッチャーは20世紀後半の世界を代表する英明なリーダーだ。映画は病と幻想のなかで、過去を振り返る構成である。
「臆病な男たちが言えないことを、誰かが言わなければならない」
と英国の再生に果敢に挑戦し、1979年(53歳)から90年(65歳)まで11年半、首相の座を占めた。就任前から、断固として共産主義に反対する保守党党首のサッチャーに、ソ連が<IRON LADY(鉄の女)>のニックネームをつけていた。
映画でも圧巻は、82年3月に勃発したフォークランド紛争だ。アルゼンチンの軍事政権が突然、英領フォークランド諸島に侵攻した。英本土から1万3000キロもかなたの南大西洋上である。
世界中が固唾(かたず)をのみ、英国の出方を注視した。英国は戦わないだろう、もし戦っても負ける、という戦争回避の予測が、ソ連をはじめ各国に広がっていた。
この渦中、昭和天皇はご進講に出向いた外務省の橋本恕情報文化局長に、「サッチャーは軍艦を出すか」と尋ねている。橋本は、
「いえ、そのようなことは絶対にありません」と断定的に答えたが、数日後、サッチャーは英艦隊の出動を命じた。当時、橋本は、
「冷や汗をかいた。もう予測的なことはいっさい陛下の前で言わない」ともらしたそうだ。この時、天皇80歳、戦争体験が長く、戦後も戦争への関心が深く、サッチャーは強硬策に出る、と読んでいたのかもしれない。
内外の慎重論を押し切り、英国の名誉を懸けたサッチャーの決断は、図に当たる。3カ月で勝利を収めた。それまで支出削減策などを推進し嫌われ者だったのが、たちまちカリスマ的リーダーの地位を不動にしたのだった。
<ダウニング街10番地(首相官邸)で過ごした年月を振り返る時、私の心に何にもまして鮮やかに残っているのはフォークランド戦争を戦い勝利を収めた1982年春の11週間である>
と「回顧録」(93年刊)にも記している。
ところで、サッチャーの在任中、日本の首相は大平正芳から海部俊樹まで6人入れ替わった。もっとも深く接したのは5回のサミットをともにした中曽根康弘である。
「鉄の女といわれるだけあって、いざ(ロンドン・サミットの)議長となると、討議の区切りにさっと入って決然と採決をとる。仕切りが鮮やかでした。しかしふだんは優雅な身のこなしで、ういういしい恥じらいを秘めた人でしたよ」と中曽根は回想している。
そんなサッチャーも辞める時は屈辱的だった。総選挙に負けたのでも、野党の労働党が不信任決議案を出したわけでもない。
身内の反乱で追放されたのだ。保守党を復活させた功労者なのに、人頭税の導入などで党内が分裂、側近が去り、辞任に追い込まれた。身内こそ最大の敵になることが、政治にはままある。
野田佳彦首相も税をめぐる身内の造反にさらされ、サッチャー末期に似ている。油断なく。(敬称略)
杜父魚文庫
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