9532 人民解放軍を誰が事実上動かしているのか  宮崎正弘

薄失脚事件以後、誰が中国人民解放軍を動かしているのか?ライジングスターは劉源だが、薄き来を支持した汚点、習近平と距離がでた。
薄き来は失脚寸前の全人代で雛壇に座った徐才厚と親しく会話する演技をみせた。徐は現時点で人民解放軍の事実上のトップと目されるが、江沢民に近い。
2011年11月10日に成都で行われた成都軍管区の特別軍事演習では、軍のポストがないにも関わらず、隣の重慶から薄き来書記がやってきて僭越にも閲兵した。四川省に依然として影響力をもつ周永康のアレンジといわれる。
周と薄は「政治同盟」を組んでいた。
すでに明らかなように政治局常任委員会の緊急会議(4月9日)で最後まで薄を擁護したのは周永康である。途中まで薄を支持した呉邦国と李長春は降りた。採決は8VS1で、周が浮き上がった存在となった。 中国のネットでは、この周永康はいつ失脚するかという投書でも持ちきり。
成都軍管区は四川、重慶、昆明、貴州を管轄する広範な軍管区で、たしかに薄き来の父親、薄一波は旧雲南省第十四集団にいた事実もあるが、後に郭伯雄が軍管区司令となって、薄の影響力は消えていた。
周永康は2000年から02年まで四川省書記を務めた。
周は公安部長を務め、07年からは政治局常務委員(序列9位)として法務、公安を担当し、グーグル攻撃では李長春とともに徹底的に排除を指導した。周はいうまでもないが江沢民の子分で、胡錦涛の政敵である。
したがって、この成都軍管区でも軍事演習を「薄・周政治同盟」が背後で動いたという軍内における秩序攪乱が、じつは重要なポイントだったのである。
薄き来失脚直後から、軍は「団結が重要であり、党の決定に軍は一丸となって従う」との声明を出した。クーデターの動きがあるなどというデマ、流言を打ち消すためだ。しかし、いまのサラリーマン化した人民解放軍のなかで、いったい誰が、クーデターを起こすのか?
クーデターがあるとすれば政治実力者が、軍のトップと組んで北京近郊の部隊を動かすシナリオは残るかもしれないが、成都のような遠隔地で少数の部隊が動いても、たちまち鎮圧されるのではないか。
中国人民解放軍にも嘗ての軍事優先、パラノイア的ナショナリストは不在で、僅かに残る中華至上主義、反日ナショナリストらも軍内では孤立している。
最も激甚な抗日論をはった熊光偕は引退、核の先制攻撃を唱えた朱成虎は片隅に追いやられ、激しく反日路線を強調してきた劉亜州のもとに人は集まらない。劉は軍主流からはずされ、現在国防大学の政治委員である。
▼中国人民解放軍は共産党のプライベートアーミーでしかない
形式的には人民解放軍のトップは胡錦涛、ナンバーツーは習近平である。中国の軍隊は共産党に従属するプライベートな軍であり、近代的な国軍ではない。「国軍化」はタブーであり、それを唱えた章泌生(大将)は三月に職務停止処分を受けているという情報がある。
つまり軍は二重構造になっており党軍事委員会と国家軍事委員会が組織もヒトも被さっているが、トップの主席はともに胡錦涛である。
国家軍事委員会は飾りに過ぎないが、重要な意味を持つ政治の季節がある。つまり党大会は今秋。全人代は翌年三月。ということは江沢民が嘗てそうしたように十月から三月までの半年間、習近平は「党軍事委員会」の主任となるが、胡錦涛の「国家軍事委員会」のほうの主任の座は維持されるのである。
胡錦涛の完全引退と温家宝の首相引退は、党大会後の2013年三月まで持ち越される。
それなら軍はいったい誰が事実上動かしているのか?
データからみる限り、実質のトップは徐才厚(69歳)のようである。徐はハルビン軍事工科学院で電子工学を学び、吉林軍区3連隊を振り出しに軍人一筋。瀋陽軍区で頭角を現し、90年に少将、93年に中将、いずれも江沢民時代である。
96-99年には済南軍区政治委員。政治部副主任に抜擢され、99年に上将(大将)。2002年に総政治部主任、04年に軍事委員会副主任に就いた。
年齢的には徐の上に郭伯雄(70歳)と梁光烈(71歳)がいるが、ともに今期で引退する。徐は江沢民のひきがあるので、居残る可能性が僅かにある。
郭伯雄は陝西省生まれで、63年に入党。軍事少年として、彼もまた軍人一筋の人生。1981年に陸軍19軍55師団の参謀長に就任し、以後、蘭州軍管区で参謀長、93-97年は北京軍管区副司令。つまり郭もまた江沢民に近い。
99年に総参謀部副書記、中央委員となった。軍事委員会副主任を兼務し、03年から政治局員である。
国防部長の梁光烈は71歳、四川省生まれ、10代から軍国少年。1970年に武漢司令部参謀となって頭角を現し、83年に陸軍20軍の副司令、95年北京軍管区司令。97年瀋陽軍管区司令、99年南京軍管区司令を歴任し、2002年参謀長、中央委員兼務。08年から国防部長。この肩書きで来日し鳩山首相と面談した。来日は軍幹部として珍しいが、国防部というのは中国では制度上、行政分野であり、国防部長というのは軽い存在である。決して米国防省官などのポストと対等ではない。
この徐才厚、郭伯雄、梁光烈の先輩格で元国防部長の軍曹剛川は陸軍大将、梁光烈の前の国防部長で、軍事委員会副主任をつとめた、その先輩格が遅浩田だった。かれらは長老として発言するが、影響力は薄い。
▼軍の秩序とは長老支配、冒険を嫌う
70歳代の軍トップは、あと二人いる。陳丙徳・総参謀長と李継耐・総政治部主任である。
71歳の陳丙徳・総参謀長は江蘇省南通の出身、上海の北という地縁から江沢民時代に南京軍管区司令、2002年に大将に昇格し総装備部部長、07年より参謀長。15党大会より中央委員。陳はイスラエルなど外国訪問が目立つのも武器技術の獲得交渉が狙いである。
李継耐は山東省出身。70歳。ハルビン工業大学卒業、砲兵から総政治部副部長まではい上がり、あとはトントン拍子の出世を遂げた、93年中将、04年から総政治部部長、つまり政治路線、思想、戦略立案の中枢にあって、李は砲兵出身音技術畑らしく、科学儀寿の発展を重視し、新兵を大学卒、それも理工学部系列から大量に採用する方針に切り替えた中心のひとりと目される。この李と陳は朋友関係だが、いずれも引退する。
つまり全員が江沢民の引きで軍のトップに付いていたのだが、今秋に引退となると、残りのなかでは劉源と劉亜州がどうしても次世代を主導する展開となるように考えられるのである。
劉亜州はまだ61歳、日本の自衛隊なら退官であるが、中国軍では現役。劉亜州はしかも、小説家であり、幾多の武侠小説、軍事小説のベストセラーを書いている変わり種だ。
劉は太子党であり、李先念元首相の女婿、スタンフォードに三年遊学の経験があるのも大学では英文学専攻という異色のキャラ。しかも劉は、対日強硬派の論客で反日運動を提議したことでも日本でも有名である。しかしどの国の軍隊もそうであるように物書きは遠ざけられる。
▼スーパースターとなるか、劉少奇の息子
注目は、やはり劉源である。
まぎれもなき太子党。軍におけるライジングスター。劉少奇の息子。60歳。すでに大将であり、総後勤部政治委員。劉は『超限戦』の著者等と親しく、反米強硬派でもあり、著作もある。
劉は1951年、北京生まれ。母親は王光美だ。王光美は聡明で、かつ美人で、物理学を北京輔仁大学で専攻したばかりか、フランス語、英語、ロシア語を喋るので、劉少奇が国家主席のおりはフォースとレディとして世界に知られた。
その美貌と能力の高さに嫉妬した毛沢東夫人の江青は王交美を文革で血祭りにあげようとし、大悪人キャンペーンでつるし上げ、外国のスパイだといって死刑判決をださせる(執行を猶予)、彼女は獄中十二年の辛苦に必死で耐えた。劉少奇はリンチで殺され、子供達の何人かが獄死した。
ようやく1980年に名誉回復され、政治協商会議常務委員など要職に就いたが、慈善事業に力点を移して85歳まで生きた。06年に死去、このとき息子の劉源は軍の中将に出世していた。彼女の半生を活写した作品に譚?美『江青に妬まれた女―ファーストレディ王光美の人生』(日本放送出版協会、2006年)がある。
さて劉少奇・王光美の子、劉源が中国の軍を率いるというのも、なにかしら星の運命によるのでもあって、次の中国の運命がきまるかも知れないのだ。劉少奇の怨霊が蘇るかも?
劉源の履歴をたどると31歳で河南省の新郷県の県知事、それまでの文革仲の迫害に関しては語らないので不明。父親の名誉回復後は劉源の人生に曙光がさして、1985年に鄭州副市長、88年に河南省副省長と政治の道を歩んだ。
ところが、41歳のとき劉源はにわかに武警畑に転じた。2000年に武警の中将、そして42歳で軍へ転身を計り、人民解放軍中将、05年総後勤部副政治委員、07年党中央委委員、09年大将。そして現在に至る。習近平政権で、政治局入りの可能性がある。
あとダークホースがふたり。劉衛平と劉暁江である。
劉衛平は習近平の中学の同級、いまは少将で総後勤部副参謀長。やはり太子党であり、父親は空軍副司令だった劉震。習近兵と中国時代は毎日のように遊んだ仲である。後者の劉暁江は海軍政治委員を務めており、胡耀邦の女婿。やはり太子党である。
杜父魚文庫

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