東京オリンピックが終わった頃の話である。戦後日本が工業立国、貿易立国を合い言葉にして高度経済成長路線に向かって離陸しようとしていた。
そこで言われたのは”効率化と集中”という考え方の徹底である。まさに欧米的な合理主義の発想が瞬く間に日本の経済界に浸透していった。農村地帯から太平洋ベルト地帯に若年労働力を移動させ、この発想を具現化する担い手として疑いもなく朝野をあげて推進した。
やがて過密・過疎という社会問題が発生する。工業立国、貿易立国の過程で税収が増えて、その余力を大都市の過密対策に当てる政策が戦後政権にとって大きな課題となった。大都市に集中した層は、政権にとって支持を得なければならない票田となっている。
都市郊外に2DKの集合住宅が林立し、上下水道が完備して、ミニ公園が作られた。快適な都市生活にはほど遠いが、戦後の混乱期に生きてきた私たちには新しい世界が開けたと実感させられた。過密問題は政府の投資政策によって解決できると思ったわけである。
ところが、住みよくなった大都市に地方からの人の異動がさらに激しくなる。大都会に出れば、就職の機会が増える。その増加人口を受け入れるために、過密対策の投資をさらに増やす。それがまた人口の集中をきたすという”イタチごっこ”に襲われた。反対に農産地帯は過疎のうえに過疎となる。
「最大の大都市政策は何もしないことです。大都市が住みにくくなれば集中現象がとまる。そこで生じた財政力を地方の中核都市政策に使えばいい」と都市政策に明るい政府高官がオフレコで言ったことがある。もっとも「こんなことを国会で発言したら、選挙で自民党は惨敗しますよね!」。この高官の発言は、ある意味で真理だと思っている。
集中が始まり、そこで効率化を追求すると扱うパイが広がる・・・利益を求める経済原則のイロハなのだが、それが行きすぎると、思わぬ陥穽が待ち受けている。
田中角栄という政治家には毀誉褒貶が付きまとっている。池田内閣の蔵相当時に大蔵省担当になったことがあるが、小学校しか出ていないという角さんを大蔵官僚は多少、馬鹿にして扱いやすい蔵相という目でみていた。今の田中防衛相をみる防衛官僚の心理と似たところがある。
新聞記者の麓邦明氏(共同)、早坂茂三氏(東京タイムス)が相次いで角さんの秘書になったのだが、麓氏は海軍兵学校出の海軍少尉さん。敗戦と同時に東大法学部に入って卒業、共同政治部のエース記者になっていた。末は政治部長、編集局長、役員になる人と自他ともに認める人材だった。
それが角さんの秘書になると聞いて、「政治家になるつもりなら分かるが、何で小学校しか出ていない角さんのところに行くの?」と先輩だが、親しかった麓氏に聞いたことがある。
その時に麓氏は”集中と効率化”がもたらす陥穽ということを口にした。「角さんは”集中と効率化”とは違う発想を持った政治家なのだ。優秀な官僚出身者にはないものを持っている」「その政治家のブレーンになって戦後日本の仕組みを変えたい」と熱弁をふるった。
池田内閣の当時だから、政局原稿を書く時に「大平・田中盟友関係」という言葉を使ったのだが、それを「田中・大平盟友関係と書かなければ、一人前の政党記者ではないよ」と麓氏からいちいち書き直しを命じられたこともある。角さんの非凡な能力は、大平氏の及ぶところではない、と諭された。
角さんの秘書になった麓氏の活躍は今では伝説となった。東大法学部の仲間たちを糾合して「都市政策大綱」を作ったのが、知る人も少なくなった。佐藤首相の首席秘書官だった楠田実氏が「麓氏がいなかったら都市政策大綱はできなかった」と回顧している。
まだ政治記者だった頃の麓氏が、一夜、角さんとサシで懇談したことがある。「集中と効率化がもたらす弊害」について麓氏が弁じたら、角さんは「均衡のとれた国土の再編成」で応じた。角さんは東京一極集中から全国に二十五万人規模の地方中核都市を造り、これを新幹線網と高速自動車道で結ぶという夢のような話で熱弁をふるった。
この都市政策大綱が下敷きとなって「日本列島改造論」が生まれている。だが角さんと麓氏の一致した”哲学”だった新しい国土造りはまだ道半ば。バブル崩壊後は地方中核都市の集中投資もストップしたままである。角さんも麓氏も亡くなった今、政治の関心は消費増税論議で明け暮れている。
六万語に及んだ「都市政策大綱」を読み返す政治家もいないのであろう。
杜父魚文庫
9605 角さんと「都市政策大綱」 古沢襄

コメント
そうでしたか。地元には小長氏がいるのでお話を聞く機会を狙っております。