久しぶりの首脳会談で日米共同声明が発表されたが、共同声明は首脳会談の議事録ではなく、実は両国官僚によって、会談以前に完成していることを知っている人は極めて少ないだろう。
それを知らされず、共同声明は議事録と勘違いして、とうとう首相再選辞退に追い込まれた首相がいた。第70代の鈴木善幸氏である。1980年7月17日から82年11月27日まで2年4ヶ月務めた。
<鈴木は、元々社会党から政界入りしたこともあって外交面ではハト派色が強い一方で、苦手だった安全保障外交を中心に度々発言を修正することがあるなど発言に隙が出た。1981(昭和56)年5月のレーガン大統領との会談後、記者会見で日米安保条約は軍事同盟ではないと発言。
これに宮澤喜一内閣官房長官も同調したが、外務大臣の伊東正義は「軍事同盟の意味合いが含まれているのは当然だ」と反発して辞表を提出し、外相を辞任した>。(「ウィキペディア」)
当時、園田直は厚生大臣だったが、伊東の後任に急遽、横滑りした。秘書官だった私も横滑り、3度目の外相秘書官となった。
鈴木善幸は池田内閣の末期、内閣官房長官を務めたとはいえ、極く短期間だった。もともと自民党内では池田派に属しながら、佐藤派の田中角栄の子分同然だった。
その関係で自民党総務会長を10期も務めるなど、党内では「調整型」の人間として通り、外交や安保問題には全く、暗かった。それが大平首相の突然死で急遽、首相になったものだから、外交への暗さを指摘して、屋山太郎(時事通信記者)は「暗愚の帝王」と命名した。
だからと言って外務省幹部としては鈴木に今更、外交を手に取る如く教えるのも失礼と、やゝ突き放した。だから日米共同声明に首脳会談で議題にもならなかった「日米安保条約は軍事同盟」という文言が何故出てきたのか理解できなかった。
この文言は、当時の世界情勢を両国の外務官僚が判断した結果、日米安保条約が持っている軍事同盟色をこの際、顕在化させようとするレーガン大統領の意向を反映させて共同声明に盛り込んだものであった。
つまり、共同声明は両国の官僚によって、首脳会談以前にできあがっているのである。私も外務省の大臣秘書官を務めるようになってはじめて知ったことだった。
だから後に善幸は「踊りを教えるなら最後まで教えなきゃいけないじゃないか」と外務官僚への不満を漏らした。野田首相はキャリアが短い分、官僚も今回は丁寧に教えたのではないか。今のところ問題は起きていない。
<鈴木はまた中国と韓国から戦争に関する記述に反発する歴史教科書問題に直面した際には、外交懸念を抑えるために中韓の意向を受けることになったが、後世で保守派から「鈴木首相、宮澤官房長官は事実確認を怠ったまま謝罪に走った」と激しく批判されている。
首相就任以来、一部マスコミからは直角内閣、暗愚の宰相と揶揄されていた。
また、世界同時不況の渦中に日本経済が巻き込まれ、税収減の恐れと支出削減の限界が出てきたため、増税無しでは1984(昭和59)年まで赤字国債脱却が困難な状況に直面した。これらの経緯により対米関係が著しく悪化したため、岸信介らの親米派により倒閣の動きが起こっていた。
しかし党内事情では総理総裁の地位を脅かすまでには至らず、1982(昭和57)年の総裁選で再選されれば長期政権も視野に入っていたが、1982(昭和57)年10月に至って突然総裁選不出馬を表明。
10月12日の退陣会見では「自分が総裁の座を競いながら党内融和を説いても、どうも説得力がないのではないか。この際、退陣を明らかにして人心を一新して、新総裁のもとに党風の刷新を図りたい。真の挙党体制を作りたい」と述べた。
田中派の処遇を中心とする党内各派のバランスに苦慮していたことや米国政権に不信感を持たれ日米関係がこじれたことが背景にあるとされているが、不出馬の真相は明らかになっていない。
首相在任記録は864日間で、首相在任中に大型国政選挙を経験していない首相としては日本国憲法下では最長記録である。
後継の中曽根内閣では、日米軍事同盟路線を強調し日米関係修復に努める一方で、鈴木の党内融和と行政改革推進の方針は継承され、鈴木の「和の政治」は、鈴木退陣後の自民党内抗争にも大きな影響を与えた。1970年代の角福戦争のような怨念も絡んだ抗争を繰り広げた迫力のある政治かはいなくなった>。(「ウィキ」)(文中敬称略)。
杜父魚文庫
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