朝六時に目を覚まして書斎の机の前に座っている。正確にいうと未明の二時に起きて「イルカに続いてペリカンが浜辺で謎の大量死 ペルー」の記事を書いて、ひと眠り。”二度寝”というやつだが、この時に夢をよくみる。熟睡していない証拠なのだろう。
この二度寝の夢が原稿を書くときに使わせて貰う習慣が身についた。目を覚ましている時には原稿のテーマがそう頻繁に思いつくものではない。ただ夢の中に出てくる人たちは亡くなった人ばかり。いわゆる”想い出”というやつだから、話は古くなる。
昨夜というか今朝の夢には東京・新橋の土橋交差点にあった古ビルが出てきた。戦後間もない昭和二十四年ごろの話となる。ビルの三階の小さな部屋に「明治時計」の看板が下げてある。この会社の主人公は鈴木憲一という名の海軍記者。教師になるつもりでいた私をジャーナリストに導いてくれた恩人。
部屋の中には中古の時計がいっぱい並べてある。戦後のことだから新品の時計がある筈はない。中古の時計を修理して細々と生計をたてていたわけである。といって海軍記者に時計が直せるわけはない。初老の痩せた職人が時計を修理していた。
鈴木さんは海軍記者から末次信正内相の秘書官に転じて、敗戦時には大政翼賛会の総務部長。極端な軍国主義者のレッテルを貼られてGHQ命令で追放処分になった。旧知の名古屋県人が鈴木さんのために明治時計を提供してくれたいきさつがある。
だから明治時計には旧海軍の将星たちが集まってきて雑談に花を咲かせていた。
末次信正氏は山口県人。海軍兵学校第27期で海軍タカ派・艦隊派の中心人物。ハト派の米内光政海軍大将と対立したが、第1潜水戦隊司令官、軍令部次長を歴任して、連合艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官を経て近衛内閣の内相に就任している。
したがって明治時計に顔を出す旧海軍の将星たちは艦隊派ばかり。私の大伯父に当たる平出英夫海軍少将も艦隊派だったから、明治時計に出入りを許され、旧海軍の裏話を聞くことが出来た。戦争が続いていたら君も海軍兵学校生徒だったな、と言われたりした。
終戦を主導した米内光政氏の暗殺計画もあったという。
ジャーナリストになってからも旧海軍には関心を持ち続けたルーツは、土橋にあった明治時計にあると思い出している。角さんの第一秘書となった麓邦明氏は海軍兵学校第76期、昭和十九年に入校しているが、戦局たけなわの時期を反映して3660名という大量採用となっている。麓氏と親しくなったのは旧海軍が取り持つ縁だったのだが、私の方が旧海軍の裏話をよく知っていたのは、明治時計に出入りしていたからである。
杜父魚文庫
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