野田内閣が日ロ交渉に意欲をみせている。プーチン大統領と親交がある森元首相を特使として派遣する意向だという。中断された北方四島の返還交渉を再立ち上げする意欲は評価しなければならないが、同時に今もシベリア各地に眠る日本軍人のことを忘れてほしくない。
シベリア墓参の旅には二度行った。日本人墓地で遺骨を掘り起こし、祖国に帰還させる厚生労働省の事業が続けられているが、戦後七十年近い歳月が経ったので、遺骨を受け取る遺族の消息が掴めない状況が生まれている。
満州の広野にソ連軍が侵攻してきたのは、昭和20年8月9日。終戦の一週間前である。日ソ中立条約の自動延長を行わないとソ連側から廃棄通告してきたのが、四ヶ月前の4月5日、在モスクワの佐藤駐ソ大使は条約第三条の規定に「廃棄通告は期間満了の一年前」と記されてあるので、この点をモロトフ外相に質すと「条約の失効は一年後のことになる。ソ連の中立義務に変化はない」と答えた。外交的にみれば、日本はソ連の不意打ちを食らったことになる。
終戦当時の関東軍の配備は次のようなものである。
主要兵団は24個師団、9混成旅団、1機動旅団で、兵員70万。抽出によって弱体化した関東軍を補強するため、支那方面から4個師団が満州方面に転用されている。
激戦地の国境地帯では、8月末から捕虜となった関東軍将兵のシベリア移送が始まっていた。9月3日には関東軍の武装解除が行われ、将兵は敦化など27カ所の中間集結地に集められて1000人程度の大隊編成で10月末までに続々とシベリア各地に送られた。新京にあった将官クラスは9月6日にハバロフスクに連行。
シベリアで死亡した日本人の墓地数も埋葬人数も不確定のままである。多くの遺骨の所在も分からないまま原野と化し、山林や農地になったところも少なくない。
昭和50年に引揚援護局は、ソ連地域の州別日本人死亡者の調査を発表したが、それによるとソ連全土の日本人墓地数は332カ所、埋葬人数は4万5575人で、少なく見積もっても1万5000人以上が不明のままである。
ソ連の東洋アカデミーのキリチェンコ研究員は、シベリア抑留について「64万人を抑留し、そのうち6万4000人が死亡した」と述べている。
シベリア各地を回ると、必ずといっていいほど、個人で墓参の旅をしている遺族に会った。
バイカル湖の湖畔にあるリストヴヤンカの日本人墓地には、横浜から来たという清楚な夫人が男の子と女の子を連れて、亡くなったご主人の墓に詣でていた。北辺のタイシェットでは第二シベリア鉄道の草むらに立った「友よ安らかに眠れ」と墓標の前で、数人の戦友が祈りを捧げていた。
異境に眠る人たちのことを忘れては、平和日本が成り立たない。玄界灘を輸送船で大陸に渡った時に、去っていく日本の山々をみながら「さらば祖国よ 栄えあれ」と一斉に歌ったという。
杜父魚文庫
9768 「さらば祖国よ 栄えあれ」 古沢襄

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