G8サミットで気がついたのは、わが野田佳彦首相のあまりにも希薄な存在感でした。いるのか、いないのか、さえわからないのです。
だがサミット宣言はその中国の人権問題にはなにも触れなかったのだ。その一方でシリアやリビア、北朝鮮などに対しては細かく、鋭く、踏み込んでの非難の表明なのである。
サミットと言えば、G6、G7時代は自由と民主主義と人権の擁護こそが高く掲げた旗印だった。経済問題への取り組みを優先するとはいえ、冷戦時代も、いや冷戦後も、民主主義や人権はサミットの主題の必須な一部だった。
1989年7月のフランスのアルシェでの第15回サミットが、中国当局の天安門広場での民主活動家たちの虐殺を厳しく非難する宣言を出したことは 特筆されるだろう。その翌年の米国ヒューストンでのサミットでも同様に中国を糾弾する宣言が発表され、対中経済制裁の基礎となった。
この時期のサミットの宣言はみな「われわれ民主主義国家群は――」という書き出しだった。民主主義という自己の価値観の普遍性を強調しての構えだった。イデオロギー上の大義でもあった。その種の志はもう今のG8にはなくなったということだろうか。
いや、今回の宣言でシリアやリビアの人権弾圧を糾弾したことは、その伝統の一部は生きているという例証だろう。ところが今の世界でのおそらく最大、最悪の人権弾圧国の中国への言及がないのである。
こう見てくると、G8の意義自体に大きな疑問が浮かんでくると言わざるをえない。
<<悲しいほど存在感のない野田首相>>
さて、最後に指摘したいのは、首脳会議全体の特徴とはやや異なるが、日本の首相の存在感の希薄さだった。
米国メディアの報道では、「ニューヨーク・タイムズ」と「ワシントン・ポスト」のいずれの長文の記事でも、各国首脳の政策に関する発言を伝えるなかで、わが野田佳彦首相の言動の紹介は皆無だった。
野田首相の名前が出てくるのは、わずかに「オバマ大統領は野田首相に5月20日の首相の誕生日を祝すチョコレートケーキを贈った」(ワシントン・ポスト)という記述だけだった。(終わり)
杜父魚文庫
9769 野田首相がみえなかったG8(完) 古森義久

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