東京スカイツリー(東京都墨田区、高さ634メートル)の開業後初めての日曜日となった27日、浅草に出た。東京スカイツリーを見たいわけではない。女房と娘二人の”ネット古沢家”で中華料理を食べようというわけで、皆の都合がつく日が27日になった。
一週間前の浅草・三社祭で大混雑していたのに、また大混雑。久しぶりに浅草の仲店通りを散策したいと思って出掛けたが、人!人!の大混雑で早々にあきらめた。人がいないのも寂しいが、年寄りは雑踏にはへきへきとする。
中華料理は横浜の南京街。横浜には20年近く住んだので、南京街には家族連れでよく出掛けた。だが、腕のいいコックは東京の一流ホテルに引き抜かれていたから、味を楽しむには都心のホテルの中華料理がいいと思うようになった。なかでもホテルオークラの中華料理が一番いい。週に二、三度は予約をとってホテルオークラで昼食。だが茨城の田舎からではホテルオークラは遠すぎる。
浅草のホテルは渡辺ミッチー一族がよく使っていた。年に何度かはこのホテルの中華料理を食べに出掛けている。畏友・高木幸雄さんのことを偲びながら、紹興酒をコップで傾けて十年、二十年昔のことを回顧するのが習わしとなった。
紹興酒といっても、製法の違いによって、元紅酒、加飯酒、善醸酒、香雪酒の四種類がある。日本でよく飲まれるのは加飯酒で、氷砂糖や薄切りにしたレモンを入れて飲むことが多い。一時は台湾産の紹興酒を飲んでいたが、やはり大陸産、それも浙江省紹興市産の紹興酒を人肌に温めてコップで飲むのがいい。
風呂のお湯を汲んで、紹興酒のビンを二本温めて飲む。日本酒だと二本も飲むと悪酔いするが、紹興酒だと悪酔いはしない。三本飲むと前後不覚になってしまうが・・・。
子供の頃は、父と母に連れられて浅草にはよくきた。浅草は昭和文壇の武田麟太郎、高見順、新田潤らが愛した街である。だが、父と母の記憶には浅草の中華料理が出てこない。父も紹興酒は飲まなかった。
あるのは、九段下の靖国神社にほど近い小さくて汚い支那料理の店。山東軒といった。月に一、二度は山東軒に連れていって貰った。父の文学仲間だった池田源尚(文藝賞)、倉光俊夫(芥川賞)、大池唯雄(直木賞)らも山東軒のことを覚えていた。
あの辺たりは、東京大空襲で焼け野原となった。敗戦後の昭和二十一年に上京して、神楽坂から九段下界隈を歩いたが、一面が焼け野原。七十年近い昔の話となった。山東軒を探すのも早々に諦めた。
焼け野原といえば、大正12年の関東大震災で横浜の南京街も瓦礫の街と化した。昭和7年の「横浜市史稿・風俗偏」で支那料理店が20軒あまりとある。それも支那事変で多くの華僑が帰国したので、本格的な復興は戦後のことになった。
昭和21年の「神奈川新聞」によれば中華街で営業していた飲食店は96軒。しかし食糧難に苦しむ多くの日本人にとっては”高嶺の花”だった。戦前の呼称だった南京街は、昭和30年以降は「中華街」といわれるようになっている。戦勝国・中華民国の蒋介石を連想させる”中華街”。
台湾には昭和40年ごろ行ったことがある。朝も晩も広東料理のご馳走攻めで、濃厚な味にはへきへきとした。同じ名の中華料理でも、日本人向きの”中華”ではない。旅の終わりの頃には、お粥を注文して、そればかり食べた。
広大な支那大陸だから中華料理といっても千差万別。日本人が好むのは、日本人向きに料理された広東料理ではないか。本場の広東料理はチト違う。ゲテものといっていい。ピリリと辛い四川料理の方が日本人好みではないか。
だが、中国山東省の山東料理は、北宋の頃まで遡ることができる中国八大料理のひとつ。明・清の時代に宮廷料理として食され、北京料理の原型といわれる。江蘇料理(こうそりょうり)ともいう。
その料理の特徴は、味は香りがよくて塩辛く、歯ごたえはやわらかく、彩りが鮮やかでつくりは繊細なことである。透明なコンソメスープ(清湯)と白く芳醇な牛乳スープ(?湯)がよく使われ、ねぎなどを香味料に使う。また海が近いことから海鮮を使った料理が多いのも特徴となっているとウイキペデイアに出ている。
それにしても戦前の九段下で味わった山東料理に勝る中華料理には、まだ出会っていない。戦前は遙か遠い話となっている。
杜父魚文庫
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