4月に、創新党の山田宏党首から、インドから聖者のシュリシュリ・ラビ・シャンカール師が来京されるので、歓迎会で挨拶をしてほしいと、依頼された。
私はインドに90年代から、ボランティアとして頻繁に通ったことがあるために、インドの要路の人々と親しくしてきた。だが、不勉強なために、シャンカール師について知識がなかった。インドの友人に電話をしてたずねると、インドではトップの5人か、10人のなかに入ると、教えられた。
シャンカール師の挨拶が、素晴しかった。
「赤児は1日平均して400回、心から笑います。それが、高校生になると1回か、2回になってしまいます。社会人になると、日に1回も、心から笑うことができなくなります。
人類は私たちが心から微笑み、笑うことができなくなってしまったので、不幸になりました」と、いうものだった。
私も1日に1回も、心から笑うことがないことに、気付いた。そして、人は何歳ぐらいから、作り笑いをすることを、覚えるのだろうかと、案じた。
もしも、私が小間物屋か、駄菓子屋の子に生まれていたとしたら、小学校の高学年のころから店番をして、作り笑いするようになったにちがいないと、思った。
もっとも、今日ではお父さんや、お母さんが切り盛りしていた店が潰れてしまって、街なかのどこを見ましても、大資本が経営しているコンビニが、目に入る。
コンビニでは従業員が客を人として扱わないために、作り笑いすらしない。
大資本は商品も、顧客も、全てコンピューターが数字に転換して、管理する。コンピューターは、血も涙もない。経済成長を崇めた結果、いくら心を捜してみても、見つけるのが容易でない社会をつくってしまった。
<国民総幸福度の意義>
昨年11月に、ブータンの若い国王と王妃が日本をたずねられて、高い人気を博した。
ブータンはヒマラヤ山脈にある、人口70万人の小国である。ブータンは物質的な国民総生産(GNP)に代えて、心の国民総幸福度――グロス・ナショナル・ハピネス(GNH)を指標として採用したことによって、知られている。
ところが、ブータンでは国民総幸福度を導入するようになってから、自殺者が増えるようになっている。これは、人が幸せになりたいと思うと、かえって不幸になることを教えている。幸せを求めるためには、現状に不満をいだいていることが、前提になる。
私は数年前から、人は幸せを求めてはならないと、講演してきた。人は幸せになりたいと願うほど、不幸になる。
日本では、戦後の高度経済成長が始まるまでは、人々が幸せを求めるよりも、日々の暮らしのなかで、家族、勤務先、世間や、自然、神仏に感謝したものだった。人は与えられた状況に感謝すれば、結果として幸せになる。
私は「幸せを求める罪」というものがあると、信じている。とくに女性は、幸せを求めるべきでない。そのために、多くの男性が無惨にも犠牲となって、死屍累累として横たわっている。
日本古来の神道は何ごとについても、感謝する信仰だ。だから神社に詣でると、心が清々しくなる。仏教は日本に伝来して、日本在来の信仰であった神道と混淆することによって、よい影響を受けた。
神道の神官は他の宗派と違って、全員が明るい。仏教や、キリスト教は死後の世界を設定して、来世における信賞必罰を説くから、暗い。
<しあわせを求めることは感謝が源>
先月末に聴衆の1人で、星野かおりさんという日本舞踊の名乗りの佳人から、便りを貰った。
「加瀬先生の講演を拝聴したのは、初めてでした。『しあわせを求めるのは罪』『感謝をすれば幸せ』との言葉に、共鳴致しました。私はこの1年間、感謝や、愛への気づきの様々な合宿を、1泊2日で開催していますが、しあわせの心に溢れ、感謝の気持に満ち足りています。
インドの聖人のお話をされました。偶然ですが、私は4月14日にシュリシュリ・ラビ・シャンカール師の御前で、日本舞踊を踊らせて頂いたばかりでした。深い瞳の輝きをもつ、とても神秘的な方でした。
今、私は『狸ばやし』という踊りをおさらいしています。以前に習った時は、狸と娘さんの踊りを分けるのに苦戦し、『狸が娘さんに化けて人間をだますけれど、月の宴でお酒を頂くと、しっぽが出て、正体を見抜かれてしまい、たぬき汁にされない様に、一生懸命逃げて山へ戻っていく』場面を、表現する自信がございませんでした。
先日の先生の笑いは知性を磨くというお言葉が、私を奮い立たせ、もう一度、『狸ばやし』をおさらいすることを決めたのです。そうしたら、一度目とは比べものにならないくらい、見る人の想像力をふくらませられるようになりました。先生に深く感謝しております。見守って下さい」
私は絵葉書に、「世俗的な世界に懲りた狸が、童心の里の山へ一所懸命に逃げる姿は、可愛いいですね」と、礼状を認めた。
<踊りの心がけはその役になること>
私たちも日常生活のなかで、星野さんの踊りの狸によく似ている。心ならずもほんとうの自分ではない娘の仮面をつけて、演技をすることを強いられるから、下手をすると、その仮面がいつのまにか自分の一部となって、脱ごうとしても脱ぐことが、できなくなってしまう。そこで、いつまでたっても贋物の自分であり続ける。
きっと、星野さんの『狸ばやし』は人々が童心を取り戻して、心から微笑むことに渇(かわ)いていることを、教えているのだろう。
私の事務所の下に、喫茶店がある。昨日は夕刻に入ってから、五月雨(さみだれ)が降りてきた。
ガラス越しに男女がしのつく雨がさも迷惑であるように、傘を傾けてつぎつぎと速や足で通ってゆくのが、見えた。
私は歌川広重や、北斎の江戸の版画を思った。版画には、夕立ちや、白雨(にわかあめ)や、雨の風景を描いた作品が多い。
<人と自然を結ぶ大切な絆>
雨は命の水で、人と自然とを結ぶ大切な絆だった。雨を迷惑だと疎(いと)むことが、なかった。私たちの先人が自然の働らきに対して、豊かな感謝の心を持っていたことが、版画から伝わってくる。
いつのまにか、日本語からさつき雨とか、さみだれ仐をはじめとする言葉が、消えてしまった。
私の祖母は、5月を「あやめ月」といったものだった。いまでも、私は5月というと、菖蒲(あやめ)の花を連想する。乙女がさみだれ髪を小櫛で梳(けず)っている光景は、想像しただけで胸が弾む。いったい、乙女はどこへ行ってしまったのだろうか?
もし、江戸の日本のあのころに、国民総感謝度という尺度があったとしたら、世界でもっとも幸わせな社会であったにちがいない。
今日、人類は地上のどこへ行っても、際限ない物欲によって、とり憑かれてしまった。そのために、前途が行き詰まるようになっている。
自動車や、ランジェリーや、スーパー・マックバーガーの売り上げによって、幸福の度合いが計られる。テレビのCMは冷酷な作り笑いによって、みたされている。
<生きることは真善美を求める心にある>
江戸時代の代表的な経済学者をあげれば、二宮尊徳と石田梅岩の2人だった。2人は人として生きるべき、徳目を説いた。あの時代の西洋では、アダム・スミスが『国富論』を著している。アダム・スミスも、グラスゴー大学の倫理学の教授だった。
ところが、今日では道徳論だったはずの経済学が、心を捨てて、貪欲な欲望の経済学となった。
そのために、地球がつねに飢渇(きかつ)――心のうえとかわきに苦しむーーする、餓鬼の遊星となってしまった。
杜父魚文庫
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