我が国には民から心底憎まれる悪逆非道な暴君というのはほとんどいなかった。ましてや天皇は尊崇されこそすれ憎悪されることはなかった。2000年以上もひとつの王朝が連綿として続いていることは奇跡であり、“天皇を最高権威として頂点に戴く”という国体の発明は画期的だ。
ウィキによれば、現在の歴史学においては天皇の発祥時期について明確な結論が出されてはいないが、少なくとも6世紀前半に即位した継体天皇以降、今上天皇に至るまでの皇室系譜は信憑性が高いため、現存する世界の王朝の中で日本の皇室が最長の歴史を有していることは確実視されている。
英国の国王は「君臨すれど統治せず」という。日本でも基本的にはそのようであり、天皇は日本の歴史において君主として重要な権威を有してきたが、実質的な統治権を行使していた期間は在位期間と比べると短く、ほとんどが天皇以外の貴族や武家、官僚などによって行使されてきた。
とりわけ鎌倉幕府成立以後は武家の棟梁の一族が代々世襲で征夷大将軍に就任し、少なくとも基本的に内政や外交では日本の最高権力者として君臨してきた。
しかし、天皇の地位がそれらの権力者によって廃されたことはなく、時の権力者も形式上は天皇の権威を尊重し、それを背景に地位に就いていたことが多い。
例えば征夷大将軍への就任も形式上は天皇の宣下によって行われ、その権力者は天皇の権威を利用して統治権を正当化することが多かった。
天皇制という穏やかな大気圏の中で、穏やかな日本人が創られていったと言える。
広大な土地と長い歴史を持つ中国では王朝が立っては消えるということを繰り返してきたが、民の怨嗟の的となった暴君も少なくなかった。殷(いん)の紂(ちゅう)王はその代表格だ。
殷(商=しょうとも。紀元前17世紀頃 – 紀元前1046年)は夏王朝を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている最古の王朝である。最終的に紀元前11世紀に周に滅ぼされた。
殷王朝の中興を果たした王武丁の功績を称えて彼は高宗と称されたが、高宗以降の王は概ね暗愚な暴君であった。殷王朝最後の帝辛(紂王)は即位後、妲己(だっき)という美女に溺れ、暴政を行い、遂には周の武王に誅されて31代、600年以上続いた殷王朝は滅亡した。
司馬遷の「史記」の解説にはこうある。
<一説によれば「紂」とは義を残(やぶ)り、善を損なう意で、死後に諡(おくりな)されたのだという>
夏桀殷紂(かけついんちゅう)と言い、“酒池肉林”の元祖紂王は夏の桀とともに暴君の代名詞となった。
現代の中国の暴君は中共=紂狂である。建国から60余年で3000万人とも6000万人ともいう民の命を悪逆非道の悪政により奪ってきたから、歴代最悪の“王朝”だろう。ソ連に続き中共の瓦解を我々は目にすることができるのだろうか。
杜父魚文庫
9812 殷王朝最後の暴君・紂王 平井修一

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