9839 祖父・羽田武嗣郎さんの想い出  古沢襄

改造人事で国土交通相に、民主党の参院議員・羽田雄一郎氏が起用された。東京生まれ、東京育ちの羽田氏だが、先祖は長野県小県郡旧和田村の秦氏の流れを汲む古族。
祖父の羽田武嗣郎(はた・ぶしろう)さんは、戦前の朝日新聞の政治記者から鉄道大臣秘書官となり、昭和12年の選挙で当選している。母の実家がある長野県の上田市が選挙区だったこともあって、羽田派の母袋県議が実家によく出入りしていた。
昭和32年のことである。朝日新聞の学科試験に合格して役員面接となったが朝日にはコネがない。母袋県議が「羽田先生に頼めば一発で採用になる」と太鼓判を押してくれたので、母の弟つまりは叔父が味噌樽を持って上京してくれた。武嗣郎さんは「戦前の朝日だからな」と困惑気味だったが引き受けてくれた。
就職難はいまも変わらないが、当時は学科試験に合格した後の役員面接でコネをつけることで大変だった。叔父は東京新聞、共同通信の役員にもコネを探して一緒に歩いてくれた。
後日譚がある。政治記者になって武嗣郎さんのところに挨拶に行った。私のことを覚えていてくれて「力足らずで済まなかった」といいながら、「息子が成城大学を卒業して朝日新聞を受けたのだが落とされてね。コネで小田急バスに入れたのだよ」。飾らない人柄に魅了された。
それからちょくちょく議員会館の武嗣郎さんのところに遊びに行くようになった。信州の羽田家が旧和田村の秦氏の流れを汲む古族ということも知った。武嗣郎さんは旧制新潟高等学校から東北帝国大学法文学部卒業、阿部次郎氏に師事する。
「先生の朝日はコネではないのですね」と冗談を交わすようになったのだが、息子の名前は阿部次郎氏に「孜( つとむ)」と付けて貰ったと言っていた。
阿部次郎・・・大正・昭和期にかけての氏の活躍は哲学界、文壇、美術界を横断して歴史に残っている。大正三年の『三太郎の日記』は学生必読の青春のバイブルとまで言われた。
「名前負けするのかな?」と武嗣郎さんは気遣いをしていたが、「孜孜(しし)として働く」の由来通り、旧田中派で重きを為して、羽田孜氏は総理大臣に登りつめた。武嗣郎さんはそれをみることなく、昭和54年夏に76歳で亡くなった。孫の雄一郎氏が44歳で大臣を射止めたのだから、武嗣郎さんも喜んでいるのだろう。八月八日の命日が間もなくやってくる。
杜父魚文庫

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