「六四再評価はしない」と言いながら実態は再評価の最中ではないか。江沢民は恩人トウ小平を貶められず、しかし楊尚昆も李鵬も陳希同も反旗。
「六四」(89年6月4日の天安門事件)における学生ら自由活動家らの大虐殺は、共産党の「正史」には記載されておらず(「事件はなかった」と言っている。だから30歳以下の世代は知らない)、体制側の知識人は「共産党史の汚点」と言い、そして党は「反革命暴乱」という位置づけを変えない。
ところが、先にも触れたように陳希同(当時北京市長)の回想録(『陳希同親述』)では「あやまった判断、愚かな行為。わたしは傀儡だった」と総括しているのだ。
▼香港マスコミによれば、回想録出版を阻止できなかった
香港の主力メディアなどよれば、北京中央は回想録出版を阻止できなかった。香港の言論の自由は守られ、6月4日に開催された天安門事件23周年記念デモには20万人が集合した。
三年前、2010年に香港で出版直前に絶版・回収されたまぼろしの『李鵬回想録』でも「天安門事件は間違いだったが、武力弾圧はわたしが命じたのではない」と当時、国務院総理で責任者のひとりだった李鵬は逃げた。
鎮圧の先頭にたって軍を指揮した楊兄弟、なかでも楊尚昆が、「あれは間違いだった」と痛切に反省したという後世の作り話もネットに流れ出した。もっとも楊兄弟も、天安門事件の弾圧では「首謀者」に祭り上げられ、やがて足下をすくわれて二人とも事実上失脚した。
つまりはトウ小平に巧妙に舞台で踊らされていたのであり、楊尚昆も陳希同も「わたしは傀儡」と言うのは正しい。
陳希同は05年の陳良宇事件に関しても「最高権力の政敵が始末されただけ、中国ではよくあること」と論評し、薄煕来の失脚も同様な解釈をしているという。
李鵬のことに戻ると、 香港で趙紫陽回想録を出した出版社から出る予定だった『李鵬日記』は、胡耀邦急逝の1989年4月15日から、趙紫陽解任が正式に決まった6月24日までの71日間を記録したもの。李鵬のように、弾圧した「勝者」側から見た個人的記録は嘘ばかりだろうが、興味がある。
ただし、ネットでは彼の日誌が閲覧できた。
ともかく李鵬は評判の悪い男だった。ソ連留学、義父(周恩来)の七光りを背にして、共産党の権威を振りかざし、天安門事件では血の弾圧を主張した張本人として民主派の敵、国民の怨嗟の的とされ、海外ではいまも評判は低い。
それゆえ対照的に趙紫陽の評判が実力以上にたかくみられ、温家宝はその恩恵にあずかって評判がすこぶる良い。李鵬を反面教師として、庶民派のイメージを腐植するコツを温家宝は体得したからだろう。
あまつさえ李鵬は三峡ダムの推進者として電力利権を牛耳ることでもしられ、軍の評判も悪かった(人民解放軍が三峡ダム建設に反対したのはインドが攻撃した場合、脆弱で下流全域が洪水となるためだ)。しかし中国の電力利権をにぎる李鵬にとっては死活的プロジェクトだった。
▼「李鵬のあたまは亀の卵」
天安門事件前後に、ときの首相=李鵬に対して、ジミー・ライがこう言ったのを思い出した。『李鵬の頭は亀の卵だ』(なにも考えていないという軽蔑の形容)。ジミーは香港で「りんご日報」を出し、ファッションのジョルダーノ(中国版ユニクロ)を経営、中国でもいくつかのチェーン店を展開していた。
ジョルダーノは放火され、けっきょくジミーは、ジョルダーノを売却せざるを得なかった。学生運動の主役だったウアルカイシは言った。「李鵬がもっとも学生運動に理解がなかった」。
さて李鵬の回想録『六四回想録』が見送られたのは発売日に息子の李小鵬が山西省の副省長から常務副省長への昇進が伝わったからだと推定された。
李小鵬は成都生まれで、米国留学。ビジネスに通じ、観光業にも意欲を示すが、国民の評判は悪い。現在53歳。だから李鵬回想録の出版中止は、この人事との取引とする観測があがっていた。
それにしても旧幹部たちが天安門事件の責任逃れと重ね、歴史の評価から逃れようとしている事実に留意しておきたい。
胡錦涛は、結局、六四再評価を避けてしまった。これを武器に江沢民の院政という桎梏を打破し、権力を濃厚に固めようと思えば、それが出来た。
腐敗や汚職の元凶『上海派』から一気に権力を簒奪することが可能だったが、かれは修羅場を血路で切り開く蛮勇に欠けたのである。
杜父魚文庫
9856 裏で天安門事件の再評価すすむ 宮崎正弘
宮崎正弘
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