さて、政局は風雲急を告げていますが、それに関しては新聞紙上でもテレビでも先行き予測も含めてあれこれ取り上げているので、例によって関係ないことを記します。ちょっと反応するタイミングがずれましたが、福島第1原発事故に対する国会の事故調が論点整理で、「東電が、いわゆる『全員撤退』を決定した形跡は見受けられない」と指摘したことについて、菅直人前首相は10日付の自身のブログでこう反論しています。
《「撤退問題」では、発電所長をはじめ現場の皆さんは最後まで頑張る覚悟であったことは、その通りだと私も思っている。しかし、清水社長が経産大臣と官房長官に電話をし、両大臣が「会社としての撤退の意思表示」と受け止めたという事実は大きい。これを官邸の誤解と一蹴するのは、やはり一方的な解釈と言わざるを得ない。》
東電側が、「全員撤退などはじめから考えておらず、必要最低限の人員は残すのは前提だった」「撤退という言葉ではなく退避という言葉を使った」と主張し、国会事故調がそちらに軍配を上げたことに対し、おおいに不満であるようです。
そりゃ、東電の全面撤退を東電本店に自ら乗り込んで止めたという「伝説」以外には、事故対応で評価されていることはほとんど何もないわけですから、菅氏としてもここは譲れないところでしょう。
この撤退問題に関しては、私の過去エントリ、2月29日付「東電の申し出が『全面撤退』だったか否かについての師予感」(http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/2612585/)、5月18日付「菅氏に『折檻』しなかったのは私の不徳と海江田氏」(http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/2691096/)、6月10日付「国会事故調・立証されてきた菅直人リスク」(http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/2716676/)でも取り上げているので、よければ参照していただきたいと思います。
で、私がここで強調しておきたいのは、菅氏も当時の枝野幸男官房長官も海江田万里経済産業相も、「全面撤退」または「全員撤退」という言葉を聞いたとは言っておらず、あくまで「われわれはそう受け止めた」と言っているだけだということです。これは、国会事故調によるこの3人の参考人聴取で改めて明確になったと言えます。
もちろん、私は東電を免責するつもりはありません。東電の体質もシステムも幹部の能力もすべて疑問だらけではあります。そうではあっても、すべて東電が悪いで済ますのもフェアではないどころか、事の本質から目をそらすことになると考えています。
蛇足かつ以前も書いたことですが、私自身、東電の関係者と何の接点も利害関係もありません。また、私は事故当時、首相官邸キャップとして官邸の事故対応の取材責任者でしたから、どうしても官邸がどう動いたかにこだわる部分があるのも認めます。
その上で、3月10日付の朝日に載っていた福山哲郎官房副長官(当時)の東大での講演について、「WiLL」の花田紀凱編集長が昨日の夕刊フジのコラム「天下の暴論」で取り上げていたものを紹介します。私もその朝日記事を読んでおり、ああ、私と同じ視点だと感じたからです。以下、関連部分です。
《福山哲郎前官房副長官は、9日、東大の講演でこう語ったという(10日付朝日)。
「撤退と東電が言ったか言わないかは大きな問題ではない。私らが全員、東電からの電話連絡で、撤退するのではないかと危機感を持って協議した」
自分たちが、その時点で東電を信頼していなかったと白状しているようなものではないか。
福山氏はこうも言っている。
「瞬間瞬間の判断を私らは求められている。受け止めた側がどう受け止め他かが、その後の決断に関わってくる」
要するに、受け止めた側の問題なのだ。深夜、東電に乗りこんで社長以下を怒鳴りつけるなど動転して、冷静さを欠いた菅前総理以下が「全面撤退」と思い込んだのが真相に近かろう》
繰り返しますが、私は東電をかばおうなんて意識はさらさらありません。こんなこと、今さら書きたくもないのですが、社会や物事を単純に見て、すべてを陰謀史観や利権の構図に閉じ込めて納得する人たちが少なくないので、あえて強調しておきます。
その上で、当時、官邸で取材していた者として、菅氏や、その考え方・発想が伝染したであろう官邸中枢には、原発事故以前から東電やその種のものに対する不信感や疑心があったように感じます。そして事故対応では、それがマイナスに作用したと。まあ、ここはあくまで感想ですが。
ちなみに当時、官邸中枢の言動を見続けた人の見方では、菅氏は「めちゃくちゃ。自分が何を言って何をしているか自覚もなければ覚えてもいない」、枝野氏は「都合の悪いことは忘れているが、あるいは意図的に忘れたふりをしているのかもしれない」、細野豪志首相補佐官は「アバウトでいい加減。自分が相手に電話したことも忘れている」……などで、福山氏が「この人が一番明晰。ちゃんと事態の推移を把握している」と一番高評価でした。
しかしまあ、受け止めた側の受け止めが全てだ、と堂々と言い放つ神経はいかがなものでしょうか。もちろん、東電側のコミュニケーション能力が低かったという問題は重たいですが、それでも「菅英雄伝説」は的外れ、というも愚かな逆ベクトルの話だと考えます。
私はいきなりは無理だと考えますが、「脱原発」を志向するのは、それは一つの選択肢だと思いますし理解できます。ただ、菅氏が脱原発を掲げているからといって、彼のやったこと、言ったことがすべて正しいかというと、全く別の話であるはずです。
まあ、私なんかが何を言おうと風の前の塵の如し、なのは重々、承知しているですが……
杜父魚文庫
9908 旧聞・菅氏の国会事故調への反論について 阿比留瑠比

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