9937 書評「重光葵 連合軍に最も恐れられた男」  宮崎正弘

<<福冨健一『重光葵―連合軍に最も恐れられた男―』(講談社)評者 菅谷誠一郎>>
▼A級戦犯から外務大臣になった葵男
1945(昭和20)年9月2日、東京湾に浮かぶ米海軍戦艦ミズーリの艦上でステッキ片手にたたずみ、参謀総長・梅津美治郎大将とともに降伏文書に署名する重光葵の姿ならば、ドキュメンタリー番組などで目にした方も多いだろう。
昨年は対米開戦70周年の節目であり、今年はその終戦から67年目に当たる。重光は東條内閣外相として戦時外交の中枢に位置し、戦後はその政治的責任を問われてA級戦犯として訴追され、東京裁判で禁固7年の判決を受けている。1950(昭和25)年に仮釈放後、1952(昭和27)年の政界入りを経て、鳩山内閣で副総理・外相を務めるなど、まさに昭和政治外交史の重要局面に参画した人物である。
▼占領期のもう一つの側面がある
本書の著者である福冨健一氏は昭和史に関する著作として、すでに東條英機についての単著と対談集をそれぞれ上梓している。前著『東條英機―天皇を守り通した男―』(講談社、2008年)では評伝というスタイルを取りながら、東京裁判法廷における東條と日本側弁護団の闘いに力点を置くことで、占領期のもう一つの側面を描いた。
今回の新著では東條内閣で「大東亜新政策」を推進し、戦後は占領期も含め、日本の自立を模索し続けた重光の姿に迫ろうとしている。かつて評者自身も訪れたことがある重光葵記念館(神奈川県足柄下郡湯河原町)での重光の子息へのインタビューを見ても、著者が本書に込めた意気込みが感じられる。
著者があとがきで、「重光や関係者の日記や原典からその当時の会話や思いを拾い上げ、それらを並べると、日本の近・現代史が浮かび上がってくる」(303頁)と述べているように、本書は重光の生涯を通じて、明治後期から昭和中期までの日本外交を描こうとしている。
主として重光自身が遺した一次史料を中心にして組み立てられているが、引用がもたらす独特の読みにくさは感じない。周囲とのやりとりなど、発言をふんだんに引用することにより、歴史の中の重光の姿が再現されている。また、独・米での留学経験によるのであろうが、海外の街並みを描く箇所ではその情景が脳裏に浮かぶかのような錯覚にとらわれる。著者自身の学識と文才があってこそ仕上がった著作と言えるだろう。
本書の最大の特徴を挙げるとすれば、同じく外交官出身政治家である吉田茂との対比から重光の存在に高い評価を与えている点にある。
昭和初期、吉田は外務事務次官として田中外交の一翼を形成し、敗戦後の占領期から独立回復に至るまでの困難な時期、五度にわたり内閣を組織した。対米協調・通商国家・軽武装の三点に集約される占領期吉田の政治構想は「吉田ドクトリン」と称され、戦後日本の保守政治の基本路線を形作ったとされている。著者はこの「吉田ドクトリン」が経済復興という短期的な「戦術」にとどまり、重光のような長期的国家「戦略」を含むものではなかった(171~172頁)として、むしろ重光ドクトリンこそ、日本にとっての正統な国家理念であったと評価する。
本書の成果は大きく言って次の三点に求められるだろう。
第一は昭和初期外務省時代にまで遡る重光と吉田の比較である。著者によれば、重光は外交官としては英米中心キャリアであり、組織重視、緻密的・論理的、対中国政策では政治主体としての国民政府との関係を重視していたのに対して、吉田は外交官としては中国中心キャリアであり、個人重視、直感的・動物的、対中国政策の面では「市場」としての中国を重視していたとする。
その上で、田中内閣期の済南事件処理から犬養内閣期の第一次上海事変処理に至るまで、重光が国民政府や英国との関係をいかに重視していたのか、その役割と基本姿勢を明らかにしている。如上のように、重光と吉田の外交感覚には相違点があったものの、両者は巧みな連携を遂げることで戦前日本外交を支えていく。彼らが「共に強烈な個性を発揮して、日本外交を牽引した」(86頁)という指摘は示唆的である。
▼対外的な創造思考を解析した労作
第二は戦前から戦中にかけての重光の対外的な創造思考を解明したことである。1887(明治20)年、大分県の漢学者の家に生まれてからの履歴は第3章「漢学者の父」以降で扱われている。
重光は1911(明治44)年に東京帝国大学(独法科)を卒業して外務省入りし、第一次世界大戦下の1914(大正3)年にロンドンの駐英日本大使館、大正7(1918)年には米オレゴン州ポートランドへの赴任辞令を受けている。この英米駐在期間中の逸話は第6・7章に詳しいが、この経験こそ、英国のデモクラシーや米国の国情、特に移民問題研究に親しむ機会となる。重光が観念的な親英米派ではなく、実地研究に即した英米協調論者であったことがここから分かる。
第8章「パリ講和会議と革新同志会の結成」では、重光が第一次世界大戦後のパリ講和会議に随行し、そこで日本側全権団の劣勢を実感した経験から外務省革新同志会の結成に参画したこと、その目的が英米に比肩し得る人材・情報収集能力の向上にあったことが明らかにされている。多国間協調の時代にあって、重光ら若手外交官は組織改革を図ることで日本外交の質的改善を図ろうとしていたのである。
また、「大東戦争」期を扱った第19章から第21章にかけては、「対支新政策」立案や大東亜会議開催に主導的役割を果たす重光の姿を通して、「大東亜国際機構」構想を紹介している。
重光は対米開戦当初から日中戦争解決の方策として、「支那の独立自主性を完全に認めて、支那は支那人の手に復帰すること」という「対支新政策」を用意していた。これは武力のみで国民政府を屈服させることができないことから、中国側の人心を対日講和に向けさせるためのものであり、侵略政策の放棄や不平等条約の撤廃、中国大陸からの欧米勢力の排除を具体的な柱とするものであった。そして、1943(昭和18)年4月の東條内閣外相就任を契機として、この「対支新政策」は同年11月の大東亜会議として具体化されていく。
本書では大東亜会議の理念が欧米の植民地政策を揺るがす衝撃をもたらしたことや、重光は大西洋憲章に対抗するため、「大東亜憲章」の下に「大東亜国際機構」を形成しようとしていたことを指摘している。
この「大東亜国際機構」は大本営政府連絡会議における陸軍の反対から「幻の案に終わる」(238頁)が、実現されていれば、大東亜仲裁裁判所、大東亜警察軍、大東亜清算銀行が設置されることになっていた。戦後のEU(欧州連合)に類似した内容を含んでおり、この点で重光の「大東亜国際機構」構想は地域統合の理念を政策的レベルにまで高めようとしたものであったと言える。戦時日本のアジア観を解明する上でも、今後、さらに検討されるべきであろう。
▼特命全権大使として
第三は外交交渉における重光の能力やそのスタンスを解明したことである。重光が活躍した時代は中国大陸情勢が安定性を欠き、最終的に日本が関係各国との対立を深め、戦争に突入していく時代でもあった。
外交官重光にとってのテーマは日本と同じく中国大陸に広汎な権益を有していた英国との協調関係をいかに維持し、それを日本の対外的地位の安定と向上に結びつけるかという点にあった。
第17・18章では1938(昭和13)年に駐英特命全権大使を拝命した重光が日英関係改善と日中戦争解決に力を傾ける姿が描かれている。
重光はチャーチル政権ハリファックス外相との交渉を通じて、日本における二元外交の解消を意図し、同時に英国に対しても援蒋ルート閉鎖を要求していたことや、日中関係の改善が日英米関係の改善につながると考えていたことを交渉記録から再現している。結果として日中戦争の進展は日英関係の破局をもたらすことになるが、「重光はこのように不利な状況であっても決して弱腰にはならなかった」(197頁)との指摘は重い意味を持つ。当時、英国外務省極東部の一員から「鋭敏な(shrewd)」外交官と評された重光の姿を再現することに本書は成功している。
また、第2章「マッカーサーとの闘い」ではドイツの無条件降伏と異なり、日本の敗戦が有条件降伏であったことを根拠として、重光がポツダム宣言の内容を超える不当な占領支配に果敢に抵抗していたことをマッカーサーとのやりとりから再現している。占領下という困難な状況下、少しでも日本の立場を守るべくマッカーサーを説得し、直接軍政の布告予定を撤廃させた力は改めて評価されるべきである。著者が「連合軍に最も恐れられた男」という副題を選んだのも、この実話にちなんだものであろう。
以上、評者が本書から初めて知り得た内容を要約してみた。しかしながら、本書には同時に論証が不十分であると思われる点や、より具体的な検討がなされるべきであった点も含まれている。
以下、重光に直接関連するものとして二点を挙げておく。
第一は対米開戦直前における重光の動向である。第22章「戦犯裁判、そして大東亜戦争史観」では元駐日英国大使ロバート・クレーギーや元駐英米国大使ジョセフ・ケネディら英米の要人が東京裁判法廷に提出した口供書で日独伊三国同盟反対、日英関係改善、開戦回避に向けての努力を理由にして重光を擁護したことや、重光の訴追決定はソ連代表判事の働きかけによるものであったことが述べられている。
であれば、日本が対米開戦に向かいつつあった中、重光がどの局面で誰に対してどのような働きかけをしたのか。これら口供者の内容を具体的に紹介するだけでも、重光を取り巻く人的相関図や当時の政府部内での重光の影響力を知る手がかりになったと思う。本書の構成として日米関係、特に日米開戦外交に占める重光の位置付けが欠けている点が悔やまれる。
第二は戦後外交と重光である。
前述のように、本書では戦前にまで遡ることで重光と吉田の比較を随所で試みており、著者は、「重光と吉田は、コインの表裏となって戦前から戦後にかけて日本外交の基本的枠組みを作っていく」(112頁)と述べている。しかし、こうした戦前からの両者の関係が戦後政治の上でどのように結び付いていたのか、本書ではその点についての具体的な評価や分析がなされていない。このため、憲法改正や再軍備をめぐる問題が争点化する1950年代、重光が吉田ら実際の政権担当者との間でどのようなスタンスをとっていたのか、戦後政治における重光の動きが明確ではない。
1950年代前半期の日本政治は吉田茂と鳩山一郎の対立を軸として展開されたものであり、重光は1952年の改進党総裁就任後は「自主外交」路線を掲げ、やがて与党自由党内部における鳩山らの反吉田新党計画に加わっていく。ただ、本書の少し前に刊行された北康利『吉田茂の見た夢 独立心なくして国家なし』(扶桑社、2009年)を見ると、1953(昭和28)年5月の第五次吉田内閣成立直前、吉田が多数派工作の一環として重光に接近し、その後、重光が副総理としての入閣という条件を得て吉田側に妥協していく姿が描かれている。
こうした経緯を踏まえると、鳩山内閣入閣以前の重光は流動的な政局の中、その姿勢は必ずしも一貫したものであったとは言えないのではないか。
著者は1950年代の重光外交について、「吉田外交を修正し、普通の国として日米対等の軍事同盟をめざした」のであり、「重光と比較すると吉田の国家観はあまりに貧弱である」とする(155頁)。そして、吉田がこの時期に再軍備に着手しなかったのは、「吉田の大雑把な性格が作用しているのではなかろうか」(118頁)と推測しているが、いずれも吉田に対する評価として遡及論的な印象が否めなかった。
▼鳩山外交との相違
1954(昭和29年)11月、自由党鳩山派と改進党の合同により鳩山を総裁とする日本民主党が結党されると、重光はその副総裁となり、翌月成立の第一次鳩山内閣には副総理・外相として入閣する。
鳩山内閣の外交成果として挙げられるのはサンフランシスコ平和条約から除外されていたソ連との国交回復であり、第二次鳩山内閣期の1955(昭和30)年5月、日ソ共同宣言発効を経て、日本は国連総会でその加盟を承認される。日本の国連加盟を阻んでいた安全保障委員会常任理事国の一つであるソ連との壁が取り払われたからである。この日ソ国交回復と国連加盟は吉田内閣期に果たせなかったものであり、この点で鳩山内閣期重光外交は戦後処理の一つをなし遂げたと表現できるかもしれない。
だが、鳩山が日ソ国交回復や自主憲法制定にこだわったのは吉田との政治的相違点を明確にするためのものであり、同時に掲げられた「自主外交」路線は日米関係の解消を意味するものであった。米ソ冷戦展開期に当たるこの時期、鳩山の掲げる「自主外交」路線が米側の対日不信を増幅させたことが長期的な「戦略」の一環と表現できるのか。
むしろ吉田長期政権への反発を強めていた世論を遺棄したポピュリズム(大衆迎合政治)と表現したほうが適切であろう。
また、この時期、外交官であった人々の印象として、鳩山内閣外相時代の重光がIMFやGATTに支えられたブレトン・ウッズ体制への理解・関心が薄かった、という指摘があると聞いたことがある。
であれば、重光は戦後日本を取り巻く国際環境の変化に十分対応できていなかった嫌いがある。したがって、本書が吉田との対比から重光に過大な評価をしていることは戦後史の叙述としてバランスを欠いている感があった。
本書では吉田ドクトリンについて、高坂正尭『宰相吉田茂』の一部のみが引用されているにとどまり、それ以降の研究が参照されていない。将来、著者が戦後の政治外交について著書を物する機会があれば、吉田以後の日米関係についても視野に入れた上で、戦後政治外交に占める重光と吉田の関係について新たな知見を提示してもらいたい。
たとえば、第23章「ダレス会談とポスト吉田ドクトリン」では1955年8月のワシントンにおける重光‐ダレス国務長官の会談が取り上げられている。その会談記録を見ると、重光が集団的自衛権の行使について積極的であったことは読み取れるが、同時に、日本国憲法を維持したままでの安保改定を意図していたようにも見える。この時期、重光は憲法改正をどのように政治日程化しようとしていたのか。鳩山と比較した場合の対米観の特徴など、これらの点は是非とも著者の手で明らかにしてもらいたい。
このほか、本書では重光の発言を引用する際、出典の注記を省略した箇所が多いため、それが同時代の史料からの引用なのか、戦後の回想録からの引用なのか判然としないものが数箇所あった。戦後公刊された重光の著作が数種類にわたることを考えると、この点で読む側への配慮が欲しかった。
奇しくも今年はサンフランシスコ平和条約発効による独立回復から70年目に当たる。戦後日本がどのような国際環境下で出発し、そこで当時の政治家たちは何を模索したのか。
本書を読み直することで、そのことに思いを致す機会となった。
■福冨健一=1954年、栃木県生まれ。東京理科大学卒業後、独ハイデルベルク大学、米ニューポート大学大学院留学。現在、自由民主党政務調査会事務副部長。単著に『東條英機 天皇を守り通した男』講談社、『南赤十字星に抱かれて 凛として死んだBC級戦犯の「遺言」』講談社。
杜父魚文庫

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