ご披露するほどの話ではないが、池波正太郎の『鬼平犯科帳』(文春文庫)全二十四巻を、先日読了した。知り合いに言うと、
「あんた、相当のオクテ(奥手)なんだね」と軽い反応である。冷笑気味だ。われわれ、池波ものはとっくの昔に、ということらしい。
そう言われても仕方ない。第一巻の第一話「唖の十蔵」の初出掲載誌は『オール讀物』昭和四十三年一月号だから、四十四年も前になる。文庫化されたのが三十八年前、私が読んだのは二〇〇〇年からの新装版で、これもすでに二十一刷だという。
池波ファンの息の長さにはびっくりする。池波は一九九〇年五月、六十七歳で亡くなっているが、ファンの層はいまも厚い。九九年一月、『毎日新聞』の政治コラムに「イケナミ・マルキスト」の題で書いたことがある。
共産党の不破哲三委員長(当時)が、発売したばかりの『完本・池波正太郎・大成』第十四巻(講談社)の月報に「池波さんの世界」という一文を書いていたからだ。もともと時代小説好きの不破さんは、
〈私はこの三十年来、池波さんの世界に生活地理的な親近感を強く感じてきた。なにしろ、中選挙区時代の私の選挙区(東京の墨田、江東、荒川)が、鬼平、秋山父子(『剣客商売』の主人公)が活躍した中心舞台なのである。……〉
と書き出している。しかし、それでも私は読もうとしなかった。本を手にするには、何かのきっかけがいる。
それはともかく、『鬼平犯科帳』に戻ると、この捕物帳の筋書きは驚くばかりにワンパターンだ。毎回、鬼平こと火付盗賊改方の長谷川平蔵率いる特捜チームが、平安な江戸を荒らす盗賊どもを、鮮やかにひっ捕える物語である。捕物のノウハウもほぼ同じ、定石を踏む。だが、読みだすとやめられない。
不思議な小説である。引き込まれる秘密は何か、と問われれば、いくつもあってまとまらない。たとえば第一巻第六話「暗剣白梅香」はこんな筆で滑り出す。
〈なまあたたかく、しめった闇に汐の香がただよっている。星もない空のどこかで、春雷が鳴った。(や……?)長谷川平蔵は、一種、名状しがたい妙な気配を背後に感じて立ちどまった。
それは、歩いていく自分のうしろから、闇がふくれあがり呼吸をして抱きすくめてきた……とでもいったらよいのだろうか。これは平蔵の多様な人生経験が、いつとはなく彼自身の感応をするどいものにしてくれていたからこそで、常人ならば……〉
この(や……?)を読んでしまって、次を読まないですますことができる人は、まずいない。あとはずるずるだ。池波文学の小憎らしいほどの吸引術である。この(や……?)に類するシーンが、『鬼平』には時折でてきてしびれさせる。
◇機械に頼り、人海戦術 鬼平の感応はいずこ…
〈するどい感応〉と表現しているが、俗にいう勘働きのことだろう。江戸の昔も平成のいまも、人が犯す犯罪捜査に勘が重要なことは言うまでもない。参考までに、長谷川平蔵は実在の人物である。『広辞苑』によると、履歴は、
〈江戸幕府の旗本。名は宣以。一七八七(天明七)年、火付盗賊改加役。九〇(寛政二)年、老中松平定信の命で人足寄場を創設。九二に火付盗賊改に専念。一七四五−九五〉ということだ。
『鬼平』のストーリーが史実にもとづいているとは思えないが、平蔵は十年近くの長期間、いまの警視総監のようなポストにいたことになる。江戸の治安に、余人をもって代え難く、〈鬼〉と恐れられたのは確かだろう。
ところで、最近、犯罪をめぐって二つの騒動が持ちあがった。
まず、東電OL殺害事件である。事件は十五年前に起き、ネパール国籍のゴビンダ・プラサド・マイナリ元被告の無期懲役が確定していたが、東京高裁は再審請求を認め、刑の執行停止を決定、六月十五日に強制退去(帰国)で出国した。またもDNA鑑定である。
現場である東京都渋谷区のアパートの部屋のトイレに残されていた精液のDNA型がマイナリ元被告と一致したことが決め手の一つになったが、昨年実施したDNA型鑑定の結果、被害女性の体内の精液やコートの血痕から別の第三者のDNA型が検出されたというのだ。
恐ろしいことである。DNAで有罪が確定し、同じDNAで無罪が証明される。なぜそんなバカバカしいことが起きるのか。当時の捜査員の一人は、
「こんな落とし穴があるとは思わなかった。捜査方針に合う証拠ばかり詳しく鑑定し、消極方向の証拠の分析を見過ごしたかもしれない」
ともらしたそうだ。かもしれない、でなく見過ごしていた。なぜか。マイナリ元被告が部屋の鍵を持っていたことなど状況証拠がそろっていたというが、要するに見込み捜査だった。しかし、それだけだろうか。
もう一つは、地下鉄サリン事件(一九九五年)で特別手配された最後のオウム真理教元信者、高橋克也容疑者の逃走事件だ。六月四日、川崎市の潜伏先から姿を消した。
防犯カメラの映像や証拠品が次々に公開され、一千万円の懸賞金つき、ワイドショー型の大捜査網が敷かれた。一週間後の十一日、〈現代の鬼平〉、警察庁の片桐裕長官は、
「いまが逮捕の大きなチャンスだ」とハッパをかけ、十五日に逮捕されたが、結局は市民の通報に頼らなければならなかった。
両事件を通じて思うのは、残念ながらとぎすまされた職人の勘が薄れている。DNA鑑定、防犯カメラなどは科学捜査の有力な武器に違いないが、それだけでは十分でない。人間の勘は時に科学力を上回る。
高橋の追跡劇をみていると、機械に頼り人海戦術に流れ、鬼平式の、(や……?)という勘働きが生かされているのか、いないのか。
江戸もいまも、犯罪者の心理に変わりはない。
<今週のひと言> 尖閣、国がさっさと買えばいい。(サンデー毎日)
杜父魚文庫
9945 「勘働き」が乏しいのではないか 岩見隆夫

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